2020年08月30日

「KOひふみ陳起M」のものがたり5

日本語書体「ひふみ陳起」の誕生

「ひふみ」は、2019年に「和字書体十二勝」のなかの1書体として発売した。これに、漢字書体「陳起」、欧字書体「K.E.Aries」を加えたのが「ひふみ陳起M」である。
「KOひふみ陳起M」は、「KOにしき陳起M」、「KOこみなみ陳起M」とともに、「designpocket」をはじめ、「Font Garage」「Aflo Mall」「Font Factory」で「和字書体十二勝」と同時に販売が開始された。
「ひふみ」のほかに、「和字書体十二勝」に含まれている和字ドーンスタイルの「にしき」と、「和字書体三十六景・第四集」((2008年発売)に含まれている「みなみ」の字面を小さくした「こみなみ」と組み合わせた。
このほか、「和字書体三十六景・第二集」(2003年)の「KOはやと」や、「和字書体十二勝」に含まれている「KOうえまつ」、「KOにしき」に、漢字書体「龍爪」、欧字書体「K.E.Aries」を組み合わせることも考えられる。
このほかに、「和字ドーンスタイル」に属する「もとおり」と「あおい」、「和字オールドスタイル」の「はなぶさ」との組み合わせも考えられる。

KOひふみ陳起M
KOあおい陳起M(★)
KOにしき陳起M
KOもとおり陳起M(★)
KOこみなみ陳起M
KOはなぶさ陳起M(★)
★は未発売


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kindle版の電子書籍『寒山拾得』(森鴎外著)を「KOひふみ陳起M」で

2020年08月29日

「KOひふみ陳起M」のものがたり4

欧字書体「K.E.Aries」のはなし(2)

欧字書体はあまり詳しくなかったので、個人的な勉強会を、 2017年の9月から12月まで、喫茶室ルノアール川越店でひっそりと開催した。
第1回は9月3日(日)で、『西洋書体の歴史:古典時代からルネサンスへ』(スタン・ナイト著、高宮利行訳、慶應義塾大学出版会、2001年)などを資料に、「カリグラフィからタイポグラフィへ」というテーマだった。
第2回は10月1日(日)で「ローマン体の誕生と伝播」、第3回は11月5日(日)で「ローマン体の変遷」をテーマにした。資料は『西洋活字の歴史:グーテンベルグからウィリアム・モリスへ』(スタン・ナイト著、高宮利行監修・翻訳、安形麻里翻訳、慶應義塾大学出版会、2014年)である。この書物は、活版印刷の誕生から20世紀初頭までのすぐれた活字書体を、その活字が使われた書物の図版と解説で時代順に紹介している。

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取り上げる活字書体は、「イタリア・ルネサンスの活字」、「フランス・ルネサンスの活字」、「バロック活字」として分類されている。一般的には、ヴェネツィアン・ローマン体、オールド・ローマン体とされる。
「イタリア・ルネサンスの活字」としては、ニコラ・ジェンソン(Nicolas Jenson)の活字書体、アルドゥス・マヌティウス(Aldus Manutius)の活字書体などが取り上げられている。続いて「フランス・ルネサンスの活字」「バロック活字」「ネオクラシカル活字」、「合理主義的活字」、そして「19世紀の活字」に分類されている。
ニコラ・ジェンソンの活字の紹介としては、ヴェネツィアで1470年に印刷されたキケロの『ブルートゥスへの書簡』が掲載されている。見開きがひとつの活字体で、ページ全体図、原寸図、拡大図の3サイズと、短い解説文で構成されている。
この個人的勉強会の最終回は12月3日(日)で、「セリフ・スラブセリフ・サンセリフ」をテーマにした。

「さきがけ」、「龍爪」と組み合わせた「K.E.Aries 」を、「ひふみ」、「陳起」にも組み合わせた。「龍爪」も「陳起」も宋朝体なので、欧字書体はヴェネチアン・ローマン体と合わせることにしたのである。

2020年08月28日

「KOひふみ陳起M」のものがたり3

漢字書体「陳起」のはなし(後)

浙江系統の宋朝体として、北宋刊本の『姓解』から復刻した「西湖」、南宋刊本の陳宅書籍鋪『南宋羣賢小集』から復刻した「陳起」、そして近代の金属活字による中華書局『唐確慎公集』から復刻した「七夕」のうち、どれかひとつを選び出すことにした。
『姓解』は初唐の楷書体、とくに欧陽詢の書風に影響を受けている。木版印刷ではあるが限りなく書字に近い。一方、金属活字版の中華書局『唐確慎公集』は近代明朝体の影響を受けているとも推察される。
書写から金属活字版に至る浙江地方の宋朝体の変遷の中で、分水嶺になったのは、間違いなく南宋の刊本、なかでも陳宅書籍鋪の書体であろう。書写から工芸の文字への大きな一歩だったと考えるからである。

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「陳起」が一番なのだ。「陳起」を制作することに決めた。

2020年08月27日

「KOひふみ陳起M」のものがたり2

漢字書体「陳起」のはなし(前)

拙著『活字書体の履歴書[青春朱夏編]で「私がもっとも魅せられた書体」と書いておきながら何のサンプルも見せられなかった写研の仿宋体(倣宋体)の簡体字文字盤があったとの嬉しい知らせが届いた。
簡体字文字盤なので日本語の文章を組むことが難しい。そこで日本語と同じ字体の漢字を集めたサンプルを印字してもらった。擬似的ではあるが、これが日本語の「紅蘭細宋朝」の見本ということになる。

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この書体は、中華書局聚珍仿宋版活字に近い印象である。長宋体をベースにした「石井宋朝体」よりも広範囲に使えるのではないかと思っていた。しかしながら国内では宋朝体は需要が無いということだっただろうか、日本語版「紅蘭細宋朝体」として発売されなかったことが惜しまれる。



「ひふみ」は、和字書体十二勝(2019年)のなかの1書体として発売された。あらかじめ組み合わせて使用できる漢字書体の候補は、浙江地方の宋朝体の系譜——中国・北宋、南宋の代表的な刊本字様および中華民国時代の金属活字である。

[北宋]
中国・宋は、後周の節度使(軍職)であった趙匡胤〔ちょうきょういん〕が、後周のあとを承けて960年に建国した。汴京〔べんけい〕(開封〔かいほう〕)を都とし、文治主義による君主独裁制を樹立した。
北宋の時代(960年–1127年)、つまり首都が汴京にあったときでも、杭州のある浙江地方はもともと木版印刷の伝統があり、また紙の産地だったので、出版産業がおおいに発展していた。交通や産業が発達して経済が豊かであり、文学が活発だったことも、出版産業が栄えた要因としてあげられる。
浙江地方の刊本は官刊本が中心で、唐代の碑文の書風、とりわけ初唐の楷書の代表とされている「九成宮醴泉銘」(632年)に近い写刻本として刊行された。
代表的な書物である『姓解』(1038年–1059年、国立国会図書館所蔵)は、中国古来の姓氏2568氏を170部門に分けて配列し、姓の起源・著名人・掲載書をあげ、発音をしるす字書となっている。
欣喜堂では、『姓解』の字様をベースにして、「西湖」という宋朝体を試作した。書体名は、杭州を代表する観光地、西湖から取った。

[南宋]
1127年、金の侵入により江南に移り、都を臨安に置いたので、それ以前を北宋といい、1279年に元に滅ぼされるまでを南宋(1127年–1279年)という。
南宋の都、臨安(現在の杭州)には多くの書坊が建ち並んでいた。宋朝の国力の衰えた時期にも、臨安の街ではまだ活発な商業活動が行われていた。そのなかでも、陳起の陳宅書籍鋪が刊行した書物は注目をあびた。
陳宅書籍舗が臨安城中の棚北大街にあったことから、その刊行物を臨安書棚本という。陳宅書籍鋪では、整然として硬質な字様を完成させた。詩の選集を多数刊行したことで知られる。また、陳起は才能に恵まれながらも無名だった民間の詩人たちと親交を結び、『南宋羣賢小集』(陳宅書籍鋪、1208年–1264年)を編纂、刊行した。
陳起はとくに詩の選集を多数刊行したことで知られ、唐代から宋代にかけての著名な詩人はほとんど漏らしていない。また、陳起は才能に恵まれながらも無名だった民間の詩人たちと親交を結び、その作品が世に広まり伝わることに力を尽した。『南宋羣賢小集』の羣賢とは大勢の知識人のことだ。
欣喜堂では、もういちど陳宅書籍舗の臨安書棚本字様に立ち返って、筆法・結法を分析したうえで、「陳起」という宋朝体を制作した。「陳起」のベースにしているのは、『南宋羣賢小集』の刊本字様である。書体名は、いうまでもなく、陳宅書籍鋪の陳起から採った。

[近代]
聚珍仿宋版活字は、1916年に丁善之と丁輔之の兄弟が聚珍仿宋版活字を製作し、丁輔之によって聚珍仿宋印書局が設立されたことに始まる。聚珍仿宋印書局は1921年に中華書局に吸収合併され、そのさいに聚珍仿宋版活字の権利も中華書局に譲渡された。
『唐確慎公集』(中華書局、1921年)は上海・中華書局聚珍倣宋版活字で組まれている。中華書局の聚珍仿宋版活字は、陳起の陳宅書籍鋪による字様を源流としているようだが、比べてみるとより安定感が増している。これは、当時すでに普及していた近代明朝体活字の影響を受けたということかもしれない。
わが国では名古屋・津田三省堂らが聚珍仿宋版を導入し「宋朝体」と名付けた。津田三省堂の宋朝体には縦横同じ幅の方宋体と縦に細長い長宋体があったが、長宋体の方が目新しい感じがあって、一般には喜ばれていたようだ。写研の石井細宋朝体は、津田三省堂の長宋体を復刻したものである。
上海・中華書局聚珍倣宋版活字で組まれた『唐確慎公集』を原資料として、「七夕」を試作している。

2020年08月26日

「KOひふみ陳起M」のものがたり1

和字書体「ひふみ」のはなし


江戸時代の木版字様を「和字ドーンスタイル」ということにする。
『字音假字用格』(本居宣長著、錢屋利兵衞ほか刊行、1776年)をベースにして制作したのが「もとい」である。それを本文用として深化させたのが「もとおり」だ。
『神字日文伝』(平田篤胤著、1824年)をベースにして復刻した和字書体「ひふみ」(和字書体十二勝)もこのカテゴリーに含まれる。さらに幕末の活字書体である「あおい」もこのカテゴリーに分類しておきたい。
「和字ドーンスタイル」に入れている「もとおり」「ひふみ」「あおい」の3書体のうち、中心となるのは「ひふみ」だと考えている。



伴信友は本居宣長没後の門人であるが、平田篤胤〔ひらたあつたね〕(1776年–1843年)もまた本居宣長没後の門人と自称している。伴信友が歴史の研究、古典の考証にすぐれていたのにたいし、平田篤胤は復古神道を鼓吹し幕末の尊王攘夷運動に影響を与えた。没後の門人というのはわかるが、自称!門人というのは首をひねりたくなる。しかし、印刷書体をみると、継承者にして好敵手といえるのではないだろうか。
平田篤胤は秋田藩士・大和田祚胤の四男で、20歳のとき脱藩して江戸に出て、さらに5年後、備中松山藩士の平田篤穏の養子となっている。1841年(天保12年)に、著作が幕府筋の忌むところとなり、著述差し止めのうえ国元帰還を命ぜられ、秋田藩士となった。

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『神字日文伝』は、上巻、下巻、付録からなる。1819年(文政2年)に成立した。漢字伝来以前に日本に文字が存在したと主張している。『仮字本末』と同様に、『神字日文伝』のひらがなの書体は(連綿も多くみられるが)、カタカナに対応して一字一字が独立したスタイルになっている。もともとの版下は毛筆で書写されたものと思われるが、硬筆書写のような印象を受ける。私は『仮字本末』とは対照的におおらかなイメージがあると見た。
欣喜堂では、『神字日文伝』から和字書体「ひふみ」(和字書体十二勝)を制作した。

ちなみに「平田篤胤之奥墓」は、「秋田大学大学院国際資源学研究科附属 鉱業博物館」の南から徒歩すぐのところにあり、墓所は国の史跡に指定されている。遺言により、衣冠束帯の姿で葬られ、墓石は本居宣長の没した伊勢国松坂(現・三重県松阪市)の方角に向けられていると伝えられている。