2020年08月24日

「KOさきがけ龍爪M」のものがたり5

日本語書体「さきがけ龍爪」の誕生

「さきがけ」は、2005年に「和字書体三十六景第三集」のなかの1書体として発売されていた。これに、漢字書体「龍爪」、欧字書体「K.E.Aries」を加えたのが「さきがけ龍爪M」である。漢字書体「龍爪」、欧字書体「K.E.Aries」は独立した活字書体としては発売されていない。

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TrueTypeの「KRさきがけ龍爪M」は、「KRもとい龍爪M」、「KRかもめ龍爪M」とともに、2008年7月から「robundo type cosmique」にCD版での販売を委託した。その1年後には、「designpocket」などからダウンロード方式での販売も開始された。
もともと近代明朝体と組み合わされていた「かもめ」だが、その力強さは「龍爪」となじむのではないかと思ったのである。
このほか、「和字書体三十六景・第二集」(2003年)の「KOはやと」や、「和字書体十二勝」(2019年発売)に含まれている「KOうえまつ」、「KOにしき」に、漢字書体「龍爪」、欧字書体「K.E.Aries」を組み合わせることも考えられる。

KOもとい龍爪M
KOうえまつ龍爪M(★)
KOさきがけ龍爪M
KOにしき龍爪M(★)
KOかもめ龍爪M
KOはやと龍爪M(★)
★は未発売

2020年08月23日

「KOさきがけ龍爪M」のものがたり4

欧字書体「K.E.Aries-Medium」のはなし

日本語フォントとして、欧字書体も必要となってくる。どうしても制作しなければならないのならば、和字・漢字書体に従属するという考えを超えて、和字・漢字・欧字書体を調和させることを念頭に置いた。
和字書体「さきがけ」、漢字書体「龍爪」に対応する欧字書体として制作したのが「K.E.Aries」である。和字書体、漢字書体が復刻した書体であるように、欧字書体も同じ制作方法であるべきだと考えたのだ。

15世紀、印刷の需要が高まっていたヴェネツィアに最初の印刷所を設立したのは、ドイツ人の兄弟ジョン・スピラ(?–1470年)とウェンデリン・スピラ(?–1478年)だった。スピラ兄弟は、手書き文字の模倣に過ぎなかったプレ・ローマン体から脱皮し、様式化されたヴェネツィアン・ローマン体となった。
そのヴェネチアン・ローマン体を完成させたのは、フランス人の印刷者ニコラ・ジェンソン(1420年?-1481年)であった。よりも洗練されて読みやすい活字書体となり、こんにちのローマン体の元祖とされるヴェネチアン・ローマン体が完成したのだ。
ジェンソン活字を使用して印刷されたのがプリニウス著『博物誌』(1472年)である。紀元一世紀の著述家プリニウスの現存する唯一の著作で、古典ローマ世界のあらゆる知識を網羅した百科全書をして知られている。活字版印刷においても、重要な印刷物のひとつとされている。
制作の参考にしたのは、この『博物誌』の1ページである。制作にあたって、ここにあるだけのキャラクターを抜き出して、アウトラインをなぞってみた。

ジェンソン活字は近代になって復刻され、アルバート・ブルース・ロジャースの「セントール」などが制作された。近年でもロバート・スリムバックの「アドビジェンソン」が制作されている。これらも逐次参考にした。

2020年08月22日

「KOさきがけ龍爪M」のものがたり3

漢字書体「龍爪」のはなし(後)

「静嘉堂文庫の古典籍 第五回 中国の版本―宋代から清代まで―」(2005年2月19日–3月21日)という展示が静嘉堂文庫美術館で開催された。
私が訪れた展示前期(2月19日–3月6日)には、南監本『南斉書』や『欽定古今図書集成』などが展示されていた。私は見逃してしまったが、展示後期には藩本『楽律全書』や毛氏汲古閣『殊玉詞』(『宋名家詞』のうち)などが展示されていたようだ。
前期・後期を通じて展示されていたのが四川刊本『周礼』であった。「漢字の歴史」展から16年ぶりの再会であった。しかも今度は実物である。来場者が少ない時間帯だったので、ガラス越しではあるが、ずっと立ち止まってじっくりと見ることができた。
実物を見て、あらためて四川刊本『周礼』の魅力が増してきた。とくに「竜の爪」といわれる収筆部の強さ。再会をきっかけとして、この書体を商品化しようと強く思った。

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書体の名称は書体のコンセプトにかかわるものなので重視している。二転三転することも多い。当初「成都」と呼んでいたのを「竜爪(のちに龍爪)」と変更した。「成都」(仮称)は、原資料である四川刊本『周礼』の出版地からとったのだが、書体のイメージとは違う気がしてきた。
そこで、四川刊本の字様が、収筆部の形状から「竜爪体」といわれているので、そのまま「竜爪」とした。True TypeのリゾルバブルFONDリソースIDは「KRかもめ竜爪M」「KRさきがけ竜爪M」「KRもとい竜爪M」で登録した。(「KR」というのはTrue Typeの識別のためにつけたものでOpen Typeは「KO」である)
ところが販売代理店の朗文堂から注文がついた。「竜爪」(リュウソウ)は読めないので、販売するのが難しいとのことである。かくして朗文堂で作成されるCDジャケットやブックレットの「竜爪」(リュウソウ)には、ふりがなが付けるということになった。
これで一件落着だと思いきや、ファクシミリで送られてきたCDジャケットのデザインには、「竜爪」ではなく、「龍爪」と書かれていた。リゾルバブルFONDリソースIDは登録していたのでちょっと困惑した。
だが、「龍爪」のほうがかっこいいし、字体が違うだけだし、人名用漢字だし、JIS第一水準だし、繁体字では「龍爪」になるのだし、もう面倒になってしまって、そのまま「龍爪」を受け入れることにした。結果的に、これでよかったと思っている。

2020年08月21日

「KOさきがけ龍爪M」のものがたり2

漢字書体「龍爪」のはなし(前)

「漢字の歴史」展(1989年2月10日―2月21日)は、東京有楽町アートフォーラムで開催された。主催は大修館書店と朝日新聞社。写研が協賛していたこともあって、私もオープニング・パーティーに出席させていただいた。
熹平石経、開成石経(拓本の写真)などとともに、四川刊本『周礼』(写真)が展示されていた。写真の展示だったので、さほど注目してはいなかった。そのときには、この書体を復刻するということまでは考えもしなかったが、なんとなく気になっていた。図録を買い求めて、ときどき眺めていた。

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あれから10年以上経ったころ、中国における碑刻書体、刊本書体、近代活字書体のなかから24書体を選んで、デジタルタイプとして再生しようと思い立った。そのなかに四川刊本『周礼』から再生した「成都」(のちの「龍爪」)を入れた。もちろん「漢字の歴史」展の図録を資料として、試作したのである。



中国・宋は、後周の節度使(軍職)であった趙匡胤〔ちょうきょういん〕が、後周のあとを承けて960年に建国した。開封〔かいほう〕を都とし、文治主義による君主独裁制を樹立した。1127年、金の侵入により江南に移り、都を臨安に置いたので、それ以前を北宋といい、1279年に元に滅ぼされるまでを南宋という。
宋朝体は、中国の宋代の木版印刷にみられる書体である。唐代に勃興した印刷事業は宋代にいたって最高潮に達していた。浙江、四川、福建が宋代における印刷事業の三大産地であり、それぞれが独自の宋朝体をうみだした。唐代の能書家の書風は宋代の印刷書体として実を結んだのである。

[四川刊本]
成都は四川盆地の西部に位置し、古くから交通・経済の要衝だったという。成都のある四川地方は木版印刷術の発祥地のひとつで、唐代からの技術の蓄積があり、宋代においてもその技術が引き継がれた。北宋と金と間の戦争でも四川地方は戦禍をまぬがれたので、南宋による官刊本の復興に大きな貢献をはたした。
四川刊本の特徴は文字サイズが大きいことで知られており、「蜀大字」とよばれている。四川地方の刊本は、中唐の顔真卿(709年–785年)書風による字様だといわれる。『周礼』は中国の儒教教典のひとつで、周王朝の官制を天地春夏秋冬の六官に分けて記述したものである。
欣喜堂では、この四川刊本『周礼』の字様をベースにして、「龍爪」という宋朝体を制作した。

[福建刊本]
中国・福建省の北部にある建陽と建安(現在の建甌)は、山間部に位置しているために版木の材料も豊富であり、製紙業も発達していたので紙の供給も十分にあり、出版業に向く条件に恵まれていた。福建刊本は種類も豊富で、出版部数も多く、流通範囲も広いものだった。
建陽の麻沙鎮、崇化鎮の二地区にあった書坊は「図書の府」ともよばれていた。麻沙鎮で出版された書物は、質の点においての評判はよいものではなかったが、すべてがそうであったわけではなく、良品も数多く出版されていた。
漢の河上公〔かじょうこう〕による『音註河上公老子道経』は良品のひとつである。福建刊本の特徴は、割注が多いということがあげられる。福建地方の刊本は晩唐の柳公権(778年–865年)書風による字様だといわれている。
欣喜堂では、この『音註河上公老子道経』の字様をベースにして、「麻沙」という宋朝体を試作した。

[浙江刊本]
南宋の都、臨安(現在の杭州)には多くの書坊が建ち並んでいた。国力の衰えた時期にも、臨安の街ではまだ活発な商業活動が行われていた。そのなかでも、陳起の陳宅書籍鋪が刊行した書物は注目をあびた。
陳宅書籍舗が臨安城中の棚北大街にあったことから、その刊行物を臨安書棚本という。陳宅書籍鋪では、整然として硬質な字様を完成させた。詩の選集を多数刊行したことで知られる。また、陳起は才能に恵まれながらも無名だった民間の詩人たちと親交を結び、『南宋羣賢小集』を編纂、刊行した。
欣喜堂では、陳宅書籍舗の臨安書棚本字様をベースにして、「陳起」という宋朝体を制作した。

和字書体「さきがけ」に組み合わせる漢字書体については、使う人が自由に選べるということで制作していた。ところが漢字書体の選択肢が少ないうえに、合成フォントで使う面倒さも問題になっていた。そこであらかじめ組み合わせて使用できる漢字書体を制作することにした。その候補は中国・宋代の代表的な刊本字様(四川・福建・浙江)のうちからひとつを選び出すことにした。
「さきがけ」との組み合わせを前提として制作しようと考えた時、試作したみっつの宋朝体、「龍爪」「麻沙」「陳起」のうちでは四川刊本字様の「龍爪」が「さきがけ」といちばんよくマッチするように思えた。

2020年08月20日

「KOさきがけ龍爪M」のものがたり1

和字書体「さきがけ」のはなし

江戸時代の木版印刷の字様に興味を持ったのは、カタカナと同じように一字一字が独立したひらがなの成立を知りたいと思ったからである。江戸時代の木版印刷にみられる素朴なイメージの字様を、私は「和字ドーンスタイル」と名付けている。和語で「ひのもとのめばえ」体ということもある。
『仮字本末』をベースにして制作した「さきがけ」は、「和字書体三十六景」第3集(2005年)のなかの1書体として発売された。和字書体三十六景に含まれる『字音假字用格』をベースにした「もとい」、2008年の時点では未制作だった「和字書体十二勝」に含まれる「うえまつ」を制作した。「もとい」「うえまつ」「さきがけ」それぞれに、三者三様の泥臭い書風がある。
同じ和字ドーンスタイルでも幕末の活字書体である「あおい」(和字書体三十六景に含まれる)、さらには和字書体十二勝として制作した「ひふみ」、明治時代初期の活字書体「にしき」(いずれも和字書体十二勝)は比較的柔らかいイメージがある。
和字ドーンスタイルに含まれる「もとい」「うえまつ」「さきがけ」のうち、もっとも標準的な書体は「さきがけ」だろう。「さきがけ」を取り上げることにする。

伴信友(1773年–1846年)の生誕の地、福井県小浜市を訪ねたのは2004年8月、私が50歳になったばかりのときだ。
小浜駅前の観光案内所で地図をもらった。レンタサイクルを勧められたが、そう遠くでもなかったので徒歩で巡ってみることにした。墓は福井県小浜市の発心寺にあった。また、伴信友顕彰碑は、発心寺から佛国寺へ向かう参道の山裾にあった。

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伴信友は江戸後期の国学者である。若狭小浜藩士で、通称を州五郎、号を事負〔ことひ〕という。信友は山岸維智〔これとも〕の子として生まれた。幼くして伴信冨〔のぶまさ〕の養子となり、江戸に出て小浜藩校「講正館」に学んだ。本居宣長の著書を読んで感激して入門を決意したのだが、入門の願いがとどいたのは宣長が亡くなったあとのことだった。
信友は、歴史の研究、古典の考証にすぐれた業績を残しているが、代表作としてあげられるのが『仮字本末』だ。信友の遺稿をその子信近が校訂し、長沢伴雄(1806年–1859年)の序を添えて、江戸・大坂・京都の書肆から刊行された。刊本は上巻之上、上巻之下、下巻、付録の合計四冊からなっており、朝鮮綴で薄紺色無地の表紙がつけられている。
『仮字本末』にあらわれたひらがなの書体は、連綿もみられるものの、カタカナに対応して一字一字が独立したスタイルになっている。もともとの版下は書写されたものと思われるが、彫刻する過程において少しアウトラインの単純化が顕著にみられ、それがやや硬めの印象を受けた。『仮字本末』から、和字書体「さきがけ」を制作することにした。

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『解体新書』の翻訳に関わった中川淳庵、杉田玄白も若狭小浜藩の人だ。小浜公園に隣接する高成寺の境内には「中川淳庵先生之碑」があり、小浜駅近くにある公立小浜病院の正面には「杉田玄白之像」が建っている。
国学の伴信友、蘭学の中川淳庵、杉田玄白ときたら、儒学(陽明学)の中江藤樹も訪ねてみたいと思った。小浜駅からバスでJR湖西線安曇川(あどがわ)駅(滋賀県安曇川町、現在は高島市)へ向かった。安曇川駅前に「近江聖人中江藤樹像」があった。そこから徒歩10分ぐらいの「近江聖人中江藤樹記念館」にも足を伸ばしてみた。