漢字書体「龍爪」のはなし(前)「漢字の歴史」展(1989年2月10日―2月21日)は、東京有楽町アートフォーラムで開催された。主催は大修館書店と朝日新聞社。写研が協賛していたこともあって、私もオープニング・パーティーに出席させていただいた。
熹平石経、開成石経(拓本の写真)などとともに、四川刊本『周礼』(写真)が展示されていた。写真の展示だったので、さほど注目してはいなかった。そのときには、この書体を復刻するということまでは考えもしなかったが、なんとなく気になっていた。図録を買い求めて、ときどき眺めていた。
あれから10年以上経ったころ、中国における碑刻書体、刊本書体、近代活字書体のなかから24書体を選んで、デジタルタイプとして再生しようと思い立った。そのなかに四川刊本『周礼』から再生した「成都」(のちの「龍爪」)を入れた。もちろん「漢字の歴史」展の図録を資料として、試作したのである。
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中国・宋は、後周の節度使(軍職)であった趙匡胤〔ちょうきょういん〕が、後周のあとを承けて960年に建国した。開封〔かいほう〕を都とし、文治主義による君主独裁制を樹立した。1127年、金の侵入により江南に移り、都を臨安に置いたので、それ以前を北宋といい、1279年に元に滅ぼされるまでを南宋という。
宋朝体は、中国の宋代の木版印刷にみられる書体である。唐代に勃興した印刷事業は宋代にいたって最高潮に達していた。浙江、四川、福建が宋代における印刷事業の三大産地であり、それぞれが独自の宋朝体をうみだした。唐代の能書家の書風は宋代の印刷書体として実を結んだのである。
[四川刊本]成都は四川盆地の西部に位置し、古くから交通・経済の要衝だったという。成都のある四川地方は木版印刷術の発祥地のひとつで、唐代からの技術の蓄積があり、宋代においてもその技術が引き継がれた。北宋と金と間の戦争でも四川地方は戦禍をまぬがれたので、南宋による官刊本の復興に大きな貢献をはたした。
四川刊本の特徴は文字サイズが大きいことで知られており、「蜀大字」とよばれている。四川地方の刊本は、中唐の顔真卿(709年–785年)書風による字様だといわれる。『周礼』は中国の儒教教典のひとつで、周王朝の官制を天地春夏秋冬の六官に分けて記述したものである。
欣喜堂では、この四川刊本『周礼』の字様をベースにして、「龍爪」という宋朝体を制作した。
[福建刊本]中国・福建省の北部にある建陽と建安(現在の建甌)は、山間部に位置しているために版木の材料も豊富であり、製紙業も発達していたので紙の供給も十分にあり、出版業に向く条件に恵まれていた。福建刊本は種類も豊富で、出版部数も多く、流通範囲も広いものだった。
建陽の麻沙鎮、崇化鎮の二地区にあった書坊は「図書の府」ともよばれていた。麻沙鎮で出版された書物は、質の点においての評判はよいものではなかったが、すべてがそうであったわけではなく、良品も数多く出版されていた。
漢の河上公〔かじょうこう〕による『音註河上公老子道経』は良品のひとつである。福建刊本の特徴は、割注が多いということがあげられる。福建地方の刊本は晩唐の柳公権(778年–865年)書風による字様だといわれている。
欣喜堂では、この『音註河上公老子道経』の字様をベースにして、「麻沙」という宋朝体を試作した。
[浙江刊本]南宋の都、臨安(現在の杭州)には多くの書坊が建ち並んでいた。国力の衰えた時期にも、臨安の街ではまだ活発な商業活動が行われていた。そのなかでも、陳起の陳宅書籍鋪が刊行した書物は注目をあびた。
陳宅書籍舗が臨安城中の棚北大街にあったことから、その刊行物を臨安書棚本という。陳宅書籍鋪では、整然として硬質な字様を完成させた。詩の選集を多数刊行したことで知られる。また、陳起は才能に恵まれながらも無名だった民間の詩人たちと親交を結び、『南宋羣賢小集』を編纂、刊行した。
欣喜堂では、陳宅書籍舗の臨安書棚本字様をベースにして、「陳起」という宋朝体を制作した。
和字書体「さきがけ」に組み合わせる漢字書体については、使う人が自由に選べるということで制作していた。ところが漢字書体の選択肢が少ないうえに、合成フォントで使う面倒さも問題になっていた。そこであらかじめ組み合わせて使用できる漢字書体を制作することにした。その候補は中国・宋代の代表的な刊本字様(四川・福建・浙江)のうちからひとつを選び出すことにした。
「さきがけ」との組み合わせを前提として制作しようと考えた時、試作したみっつの宋朝体、「龍爪」「麻沙」「陳起」のうちでは四川刊本字様の「龍爪」が「さきがけ」といちばんよくマッチするように思えた。