和字書体三十六景・第4集(2008年)2007年、タイポグラフィ学会が設立された。初代会長は佐藤淳さん(京都造形芸術大学教授)、事務局長は河野三男さん。事務局は京都造形芸術大学に置かれた。私も河野三男さんに誘われて、設立発起人として加わり、2010年に諸般の都合で退会するまでの4年間所属していた。
おもな活動としては、『タイポグラフィ学会誌01』(タイポグラフィ学会、2007年)所収の研究ノート「和字書体の書体分類と展開」がある。論文を書くような立場ではなかったのだが、タイポグラフィ学会が発足して最初の学会誌だったこともあり記念として書いたものだった。
和字書体分類の私案は、この研究ノートが基本となっている。そこでは、黎明本様体・明治本様体・昭和本様体・豊満本様体という漢字表記を提案した。この分類が、現在の和字書体設計の基本的な考えとなった。
この研究ノートを書いた時点では、和字書体第1集(2002年)と和字書体第2集(2003年)、和字書体第3集(2005年)がすでに販売されていた。この後、研究ノートで示したカテゴリーを補填して網羅するために、第4集(2008年)を制作、その後もファミリー化などを進めた。デジタルタイプとして再生した和字書体が36書体になったので、葛飾北斎の『富嶽三十六景』から「和字書体三十六景」となづけた。
『富嶽三十六景』は、1831年(天保2年)頃から出版されたものだ。このシリーズは、歌川広重の『東海道五拾三次』のように名所絵として制作販売されたものではない。富士山のさまざまな条件で異なる山容の表情に、最大の興味が注がれているようだ。「和字書体三十六景」も和字書体のさまざまな形象を選び出しているということでは『富嶽三十六景』と共通すると思っている。漢字書体は歴史別に分類しているが、和字書体は景色だととらえている。
漢字書体との組み合わせは、参考・推奨書体はあるのだが、すでに展開している多様な書体のなかから、「和字・欧字・漢字」の組み合わせの妙を発揮されることを期待している。名著を飾った伝統のたかみにある和字書体が現代に甦り、あらたな伝統がうまれる契機となることを願っている。
和字書体の分類案はその後、和字書体には和語の表記が望ましいのではないかと考え、『アイデア349』(誠文堂新光社、2011年)の「今田欣一の書体設計 和字と漢字」では、めばえ・いぶき・さかえ・ゆたかという名称を使っている。私としてはこれを推したいのだが、残念ながら浸透しなかった。
『欣喜堂ふたむかし』(有限会社今田欣一デザイン室、2017年)の「和字書体のすがたカタチ 近代編」では、和字ドーンスタイル、和字オールドスタイル、和字ニュースタイル、和字モダンスタイルという表記を使っている。講演会ということもあり、現状で最もなじみのある言い方に戻した。
ただ、その分類基準が変わっているわけではなく、名称が和語ひらがな表記、漢字表記、外来語カタカナ表記になっているだけである。当面はこのみっつを併用していくことにしている。
【もとい】【もとおり】『字音假字用格』(本居宣長、錢屋利兵衞ほか、1776年)は、日本に伝来した漢字の字音に、いかなる和字をあてるのが正しいのかを、古文献の用例にもとづいて決定したものだ。この書物は漢字カタカナ交じり文で書かれているが、表記に関する説明には、ひらがなが交じっている。
※原資料に基づいて「もとい」を制作したが、さらに深化させて「もとおり」として再構築させた。
【さよひめ】室町時代から江戸初期に流行した物語類は御伽草子あるいは室町物語ともいわれるが、その一部は挿絵入りの短編物語の「奈良絵本」の形で伝来している。『さよひめ』(作者不詳、室町後期?、奈良絵本)の物語は浄瑠璃でもよくしられている。
【いけはら】本木昌造の新街活版所で印刷された『長崎新聞 第四號』(新街活版所、1873年)にもちいられた活字の版下を揮毫したのが池原香穉(1830年–1884年)だといわれている。池原は26歳で眼科医を開業、本木昌造とは長崎の歌壇の仲間であった。薩摩藩の重野安繹が上海より輸入しながら放置されていた活字と印刷機を本木昌造に紹介したということからも、活字や印刷にも関心を寄せていたことがうかがえる。
【ひさなが】江川活版製造所は、江川次之進(1851年-1912年)が創立した。1886年(明治19年)に著名な書家の久永其頴(多三郎)に版下の揮毫を依頼した。この行書体活字は1895年(明治28年)に青山進行堂活版製造所によっても母型が製造され市販されている。
【ゆかわ】湯川梧窓(享 1856年–1924年)は大阪で生まれた。幼時から書を学び、村田海石と並び称されたそうである。湯川梧窓が版下を制作した南海堂行書体活字には、二号から五号までの各シリーズがあるが、なかでも三号活字がもっとも整っている。青山進行堂活版製造所では、さらには湯川梧窓の版下による南海堂隷書体活字、南海堂草書体活字が発売されている。
【まなぶ】発行兼印刷者の吉川半七は貸本業を営んでいた近江屋嘉兵衛の養子になり、1870年(明治3年)に近江屋半七書店を開業した。1887年(明治20年)に出版専業となっている。『国文中学読本』(吉川半七、1892年)の本文字様から活字書体化した。吉川弘文館の名称は没後の1904年(明治37年)になってから使用されている。
【くらもち】『活版見本』(東京築地活版製造所、1903年)は、わが国の活字版印刷史上最大規模の438ページにもおよぶ見本帳で、第五代目社長野村宗十郎(1857年–1925年)のときに発行された。この見本帳に掲載された「五号二分ノ一ゴチックひらがな」は、和字ゴシック体として見本帳に登場した最初期の書体であろう。
【みなみ】活字鋳造会社「津田三省堂」は1909年(明治42年)に名古屋で創業された。『本邦活版開拓者の苦心』(津田三省堂、1934年)は昭和9年に私家版として発行されたものだ。津田三省堂は宋朝体の成功によって一世を風靡したが、その宋朝体に組みあわされた和字書体は、彫刻の趣の残った書体である。
【たいら】『書物の世界』(寿岳文章著、朝日新聞社、1949年)は、京都の内外印刷で印刷・製本され、朝日新聞社から発行されている。欧文タイポグラフィの基本原理を日本文縦組みへの応用を著した書物である。鮮明な活字組み版と堅牢な造本によって、それを具体化させたもので、記念碑的な書物だといわれている。
『タイポグラフィ学会誌01』(タイポグラフィ学会、2007年)所収の研究ノート「和字書体の書体分類と展開」は『和字書体・漢字書体・欧字書体—継承への思索』に発展させた。