2020年08月11日

「ときわぎ」「きたりす」「みそら」のものがたり2

和字ニュースタイル「ときわぎ」(2015年)

金属活字の書体から、明朝体・ゴシック体・アンチック体という主要三書体と調和する和字書体を制作した。これを「ときわぎ(常盤木)」クランと呼ぶことにする。
日本語書体において、一般的には明朝体・ゴシック体・アンチック体が主要3書体である。にもかかわらず、多くのメーカーが明朝体・ゴシック体のファミリー化までは熱心に進めるけれど、アンチック体となると、まるで興味を示さないのは残念なことだ。
「ときわぎロマンチック」「ときわぎゴチック」「ときわぎアンチック」は、近代明朝体と組み合わせる和字書体、ゴシック体と組み合わされる和字書体、アンチック体としての和字書体ということで、1950年代に印刷された金属活字にみられる力強くしなやかな雰囲気を醸し出すことを目標にして制作している。
「ほしくずや」のスタンダード書体というべき書体群「ときわぎ」のうち、「ときわぎロマンチックW3」「ときわぎアンチックW6」「ときわぎゴチックW6」の3書体を、2015年5月9日に発売した。
その基本となる「ときわぎロマンチック」の参考にしたのは、『右門捕物帖全集 第四巻』(佐々木味津三著、鱒書房、1956年)の本文に使用されている、力のある和字書体である。復刻ではなく、これを参考にしながら新しく画き起こした。「ときわぎロマンチックW3」は本文用和字書体である。漢字書体は「白澤明朝」、欧字書体は「Vrijheid Serif」と組み合わせることにしている。
「ときわぎロマンチック」をもとにして、「ときわぎゴチックW6」と、ときわぎアンチックW6」を制作することにした。「ときわぎゴチックW6」は小見出し用和字書体である。漢字書体は「白澤呉竹」、欧字書体は「Vrijheid Sans」と組み合わせる。「ときわぎアンチックW6」も小見出し用和字書体である。漢字書体は「白澤安竹」、欧字書体は「Vrijheid Slab」という組み合わせを想定している。
「ときわぎロマンチックW3」(2015年)
「ときわぎゴチックW6」(2015年)
「ときわぎアンチックW6」(2015年)
「ときわぎクラシックW3」(2019年)

2020年08月10日

「ときわぎ」「きたりす」「みそら」のものがたり1

ギャラリー華音留から始まった

2014年の4月某日、東京・根津のギャラリー華音留で開催されていた「moji moji party No.6 写植機体験展」という催しにふらりと立ち寄った。そのとき、主催者である株式会社文字道の伊藤義博さんと、亮月写植室の桂光亮月さんとの会話の中で、ついつい年齢の話になった。
「もう半月ほどで、前の会社だったら定年なんですよねえ」
ふともらしたところ、伊藤さんから提案があった。
「それじゃあ、記念にイベントやろうよ。6月末に「moji moji Party No.7」を計画しているから、そのときなんかどう?」
こうして、生誕60周年記念の展覧会をしてもらえることとなった。まあ、一生に一度だけだから、ちょっと御輿に乗ってみるかというところだ。根津の路地裏にある落ち着いた雰囲気のギャラリーなので、ゆったりとした楽しい時間を過ごしていただけたと思う。

HG05_1_1.JPG

moji moji party No.7
「今田欣一の書体設計 活版・写植・DTP」展

会期:6月24日(火)— 6月29日(日)
12時—19時(最終日は17時まで)
会場:東京・根津 ギャラリー華音留
主催 株式会社文字道
第1部
「活字への憧れ、写植との出会い」として、印刷物を額装したもののほか、活字、文字盤、パンフレットなどを展示。
第2部
「和字書体三十六景」「漢字書体二十四史」「欧字書体十二宮」および「ほしくずやコレクション」

『欣喜堂立志篇』で発表した書体(試作書体を含む)をポストカードにして額装したものが100枚以上を展示した。このときに初めて披露することになったのが「ほしくずや」のスタンダード書体というべき書体群「ときわぎ」で、「ときわぎロマンチック」「ときわぎアンチック」「ときわぎゴチック」に、もうひとつ「ときわぎクラシック」を加えた4書体という構想である。

2020年08月08日

「和字書体三十六景」のものがたり4

和字書体三十六景・第4集(2008年)

2007年、タイポグラフィ学会が設立された。初代会長は佐藤淳さん(京都造形芸術大学教授)、事務局長は河野三男さん。事務局は京都造形芸術大学に置かれた。私も河野三男さんに誘われて、設立発起人として加わり、2010年に諸般の都合で退会するまでの4年間所属していた。
おもな活動としては、『タイポグラフィ学会誌01』(タイポグラフィ学会、2007年)所収の研究ノート「和字書体の書体分類と展開」がある。論文を書くような立場ではなかったのだが、タイポグラフィ学会が発足して最初の学会誌だったこともあり記念として書いたものだった。
和字書体分類の私案は、この研究ノートが基本となっている。そこでは、黎明本様体・明治本様体・昭和本様体・豊満本様体という漢字表記を提案した。この分類が、現在の和字書体設計の基本的な考えとなった。
この研究ノートを書いた時点では、和字書体第1集(2002年)と和字書体第2集(2003年)、和字書体第3集(2005年)がすでに販売されていた。この後、研究ノートで示したカテゴリーを補填して網羅するために、第4集(2008年)を制作、その後もファミリー化などを進めた。デジタルタイプとして再生した和字書体が36書体になったので、葛飾北斎の『富嶽三十六景』から「和字書体三十六景」となづけた。
『富嶽三十六景』は、1831年(天保2年)頃から出版されたものだ。このシリーズは、歌川広重の『東海道五拾三次』のように名所絵として制作販売されたものではない。富士山のさまざまな条件で異なる山容の表情に、最大の興味が注がれているようだ。「和字書体三十六景」も和字書体のさまざまな形象を選び出しているということでは『富嶽三十六景』と共通すると思っている。漢字書体は歴史別に分類しているが、和字書体は景色だととらえている。
漢字書体との組み合わせは、参考・推奨書体はあるのだが、すでに展開している多様な書体のなかから、「和字・欧字・漢字」の組み合わせの妙を発揮されることを期待している。名著を飾った伝統のたかみにある和字書体が現代に甦り、あらたな伝統がうまれる契機となることを願っている。
和字書体の分類案はその後、和字書体には和語の表記が望ましいのではないかと考え、『アイデア349』(誠文堂新光社、2011年)の「今田欣一の書体設計 和字と漢字」では、めばえ・いぶき・さかえ・ゆたかという名称を使っている。私としてはこれを推したいのだが、残念ながら浸透しなかった。
『欣喜堂ふたむかし』(有限会社今田欣一デザイン室、2017年)の「和字書体のすがたカタチ 近代編」では、和字ドーンスタイル、和字オールドスタイル、和字ニュースタイル、和字モダンスタイルという表記を使っている。講演会ということもあり、現状で最もなじみのある言い方に戻した。
ただ、その分類基準が変わっているわけではなく、名称が和語ひらがな表記、漢字表記、外来語カタカナ表記になっているだけである。当面はこのみっつを併用していくことにしている。

【もとい】【もとおり】
『字音假字用格』(本居宣長、錢屋利兵衞ほか、1776年)は、日本に伝来した漢字の字音に、いかなる和字をあてるのが正しいのかを、古文献の用例にもとづいて決定したものだ。この書物は漢字カタカナ交じり文で書かれているが、表記に関する説明には、ひらがなが交じっている。
※原資料に基づいて「もとい」を制作したが、さらに深化させて「もとおり」として再構築させた。
【さよひめ】
室町時代から江戸初期に流行した物語類は御伽草子あるいは室町物語ともいわれるが、その一部は挿絵入りの短編物語の「奈良絵本」の形で伝来している。『さよひめ』(作者不詳、室町後期?、奈良絵本)の物語は浄瑠璃でもよくしられている。
【いけはら】
本木昌造の新街活版所で印刷された『長崎新聞 第四號』(新街活版所、1873年)にもちいられた活字の版下を揮毫したのが池原香穉(1830年–1884年)だといわれている。池原は26歳で眼科医を開業、本木昌造とは長崎の歌壇の仲間であった。薩摩藩の重野安繹が上海より輸入しながら放置されていた活字と印刷機を本木昌造に紹介したということからも、活字や印刷にも関心を寄せていたことがうかがえる。
【ひさなが】
江川活版製造所は、江川次之進(1851年-1912年)が創立した。1886年(明治19年)に著名な書家の久永其頴(多三郎)に版下の揮毫を依頼した。この行書体活字は1895年(明治28年)に青山進行堂活版製造所によっても母型が製造され市販されている。
【ゆかわ】
湯川梧窓(享 1856年–1924年)は大阪で生まれた。幼時から書を学び、村田海石と並び称されたそうである。湯川梧窓が版下を制作した南海堂行書体活字には、二号から五号までの各シリーズがあるが、なかでも三号活字がもっとも整っている。青山進行堂活版製造所では、さらには湯川梧窓の版下による南海堂隷書体活字、南海堂草書体活字が発売されている。
【まなぶ】
発行兼印刷者の吉川半七は貸本業を営んでいた近江屋嘉兵衛の養子になり、1870年(明治3年)に近江屋半七書店を開業した。1887年(明治20年)に出版専業となっている。『国文中学読本』(吉川半七、1892年)の本文字様から活字書体化した。吉川弘文館の名称は没後の1904年(明治37年)になってから使用されている。
【くらもち】
『活版見本』(東京築地活版製造所、1903年)は、わが国の活字版印刷史上最大規模の438ページにもおよぶ見本帳で、第五代目社長野村宗十郎(1857年–1925年)のときに発行された。この見本帳に掲載された「五号二分ノ一ゴチックひらがな」は、和字ゴシック体として見本帳に登場した最初期の書体であろう。
【みなみ】
活字鋳造会社「津田三省堂」は1909年(明治42年)に名古屋で創業された。『本邦活版開拓者の苦心』(津田三省堂、1934年)は昭和9年に私家版として発行されたものだ。津田三省堂は宋朝体の成功によって一世を風靡したが、その宋朝体に組みあわされた和字書体は、彫刻の趣の残った書体である。
【たいら】
『書物の世界』(寿岳文章著、朝日新聞社、1949年)は、京都の内外印刷で印刷・製本され、朝日新聞社から発行されている。欧文タイポグラフィの基本原理を日本文縦組みへの応用を著した書物である。鮮明な活字組み版と堅牢な造本によって、それを具体化させたもので、記念碑的な書物だといわれている。

『タイポグラフィ学会誌01』(タイポグラフィ学会、2007年)所収の研究ノート「和字書体の書体分類と展開」は『和字書体・漢字書体・欧字書体—継承への思索』に発展させた。
 

2020年08月07日

「和字書体三十六景」のものがたり3

和字書体三十六景・第3集(2005年)

『タイポグラフィ・ジャーナル ヴィネット』はそれまでの単著のスタイルから『タイポグラフィ・カレイドスコープ 文字の万華鏡』という複数の執筆者によるスタイルに刷新された。第三弾として企画していたものは断念せざるを得なくなった。
それでも『タイポグラフィ・カレイドスコープ 文字の万華鏡』の第2号(2005年9月発行)に「和字書体—限りなき前進」という文章を掲載させていただき、簡単ではあるが次の9書体の紹介をすることができた。

【さきがけ】
『仮字本末』(伴信友、三書堂、1750年)を原資料として制作した。伴信友(1773年–1846年)は江戸後期の国学者で、歴史の研究、古典の考証にすぐれた業績を残している。本居宣長の著書を読んで感激し入門を決意したが、入門の願いがとどいたのは宣長が亡くなったあとのことだったという。
【ふみて】
内田嘉一(晋斎、1846年–1899年)は慶応義塾に入門し、福沢諭吉の信頼を得た。『啓蒙手習之文』(福沢諭吉著、慶応義塾、1871年)の版下を内田が担当した。ひらがなが1ページに2文字ずつ大きく書かれ、カタカナが1ページにまとめて書かれている。「文字は分明でありたい」という福沢の考えを実践したものだ。
【しおり】
井上千圃(高太郎、1872年–1940年)は、大正時代の後半から国定教科書の木版の版下を引き受けており、文部省(現在の文部科学省)活字の版下も依頼された。この活字が使用された『小學國語讀本 巻八』(文部省、1939年、東京書籍)を原資料として制作した。のちに「教科書楷書体」「教科書体」とよばれるようになった書体である。
【さおとめ】
西澤之助(1848年–1929年)が創立した国光社は伝統的な女子教育の雑誌 『女鑑』 で知られるが、多くの教科書を発行している大手教科書会社でもあった。『尋常小學國語讀本 修正四版』(国光社、1901年)には、吉田晩稼(香竹、1830年–1907年)が版下を書いたといわれる活字書体で組まれている。
【まどか】
『富多無可思』(青山進行堂活版製造所、1909年)の青山安吉(1865年–1926年)による「自叙」は四号楷書体活字、竹村塘舟による「跋」は四号明朝体活字で組まれているが、その和字書体は共通している。東京築地活版製造所の四号活字書体と同系統だと思われる。
【ほくと】
太平洋戦争後の1946年(昭和21年)から1950年(昭和25年)までの約四年間、北海道では札幌市を中心として出版ブームがおこった。『新考北海道史』(北方書院、1950年)もその1冊である。印刷は興国印刷。この本の「序」と「まえがき」にもちいられた活字を復刻した。
【うぐいす】
太平洋戦争後には連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の一連の新聞解放政策によって、全国各地で数多くの新聞が生まれた。これらは「新興紙」といわれ、その数は1,000紙以上といわれている。朝日新聞系の『九州タイムズ』(九州タイムズ社、1946年4月14日付)の活字書体をベースにして制作した。
【いしぶみ】
明治時代にも建碑は盛況で、名だたる書家が携わり字彫専門の石工もあらわれた。落合直澄〔なおずみ〕(1840年–1891年)の顕彰碑である「槙舎落合大人之碑」(1891年頃、雑司ヶ谷霊園)の揮毫は華族女学校教科事業嘱託・阪正臣〔ばんまさおみ〕(1855年–1931年)の手になる。
【くろふね】
大正時代に謄写版印刷で、草間京平(1902年–1971年)によって考案された「沿溝書体」によって、書写のゴシック体が確立したといえる。山形謄写印刷資料館で『沿溝書体スタイルブック』(日本孔版文化の会、1942年)を借りることができたので、この字様からデジタルタイプ化していった。

2020年08月06日

「和字書体三十六景」のものがたり2

和字書体三十六景・第2集(2003年)

『タイポグラフィ・ジャーナル ヴィネット』での和字書体シリーズ第2弾として、新たな企画を提案したところ、編集者から、別の観点で—という要請があった。そこで『ヴィネット11 和漢欧書体混植への提案』(2003年12月)として発刊することができた。このタイトルも編集者による。
テーマは漢字書体、欧字書体も含めた「混植」だが、その中心は和字書体であり、九書体の試作書体の制作の背景をまとめた。同時にデジタルタイプ(CD)としても販売することになった。

【やぶさめ】
鎌倉幕府が成立して政治権力は鎌倉に移動したため、残された公家は文化面での専門性をたかめて家業として受け継ぐようになった。藤原定家筆による『更級日記』写本(菅原孝標女著、1230年?、御物・定家筆)をもとに制作した。藤原定家は個性的な書風で「定家様」といわれる。同じ原資料からアドビシステムズの西塚涼子さんが「かづらき」という書体を設計している。
【たかさご】
室町時代には歌謡・舞踊・演劇などの芸能が豊かな展開をみせて、伝統として受け継がれるような成熟に到達した。世阿弥元清は能を総合芸術として大成させ、現代にまで伝わる能楽の基礎を確立した。『風姿花伝』写本(世阿弥元清著、室町前期?、金春本)をもとに制作した。
【ばてれん】
キリシタン版も外せないところだ。キリシタン版の活字は、イエズス会の日本人助修士、ジョルジュ・デ・ロヨラ(1562年?–1589年)が制作したと言われる。キリシタン文学のなかで、もっとも優れたものとされる『ぎや・ど・ぺかどる』(1599年)に用いられた活字書体から復刻した。
【げんろく】
浮世草子の代表として、井原西鶴(1642年–1693年)の『世間胸算用』(井原西鶴、1692年)を原資料として、その字様を原資料にして活字書体化した。元禄時代の町人にとって一年間の総決算日である大晦日の賃借支払いの諸相を描いた小説である。
【えど】
草双紙・合巻を代表するものとして『偐紫田舎源氏』(柳亭種彦著、1829年–1842年)を取り上げた。柳亭種彦(1783年–1842年)のプロデュースのもと、挿画の歌川国貞と筆耕の千形道友または柳枝、彫刻師の共同制作で一冊の本ができるのである。
【はやと】
『二人比丘尼色懺悔』(尾崎紅葉著、吉岡書籍店、1889年)の印刷は国文社である。この書物に使われている漢字書体は活版製造所弘道軒の四号清朝活字らしいが、和字書体は複数の活字書体が混在しているようだ。これも時代を反映したものとして捉えこれを原資料として復刻することにした。
【きざはし】
東京築地活版製造所の初期五号活字はわが国の印刷史において極めて重要な書体と思っていた。『長崎地名考』(香月薫平著、虎與號商店、1893年)は、印刷所は東京築地活版製造所である。この資料を入手できたので嬉々として取り組むことにした。
【さくらぎ】
1903年(明治36年)に小学校令が改正され、小学校の教科書は国定教科書となった。1909年(明治42年)には、日本書籍・東京書籍・大阪書籍の3社が翻刻発行をして国定教科書共同販売所が販売することになった。おおむね木版印刷によるもので、『尋常小学修身書巻三』(東京書籍、1919年)もそのひとつである。
【ことのは】
『辞苑』(新村出編、博文館、1935年)は新村出(1876年–1967年)の編著で博文館から出版され、大ベストセラーとなっていた。『辞苑』には、見出し語に和字アンチック体がもちいられている。新村出は京大教授で、ヨーロッパ言語理論の導入に努め、日本の言語学・国語学の確立に尽力した。

『ヴィネット11 和漢欧書体混植への提案』は、その後に制作した書体も含めて『欣喜堂組み見本帖 和字書体・漢字書体・欧字書体—混植への提案』へと発展させた。