『タイポグラフィ・ジャーナル ヴィネット』はそれまでの単著のスタイルから『タイポグラフィ・カレイドスコープ 文字の万華鏡』という複数の執筆者によるスタイルに刷新された。第三弾として企画していたものは断念せざるを得なくなった。
それでも『タイポグラフィ・カレイドスコープ 文字の万華鏡』の第2号(2005年9月発行)に「和字書体—限りなき前進」という文章を掲載させていただき、簡単ではあるが次の9書体の紹介をすることができた。
【さきがけ】
『仮字本末』(伴信友、三書堂、1750年)を原資料として制作した。伴信友(1773年–1846年)は江戸後期の国学者で、歴史の研究、古典の考証にすぐれた業績を残している。本居宣長の著書を読んで感激し入門を決意したが、入門の願いがとどいたのは宣長が亡くなったあとのことだったという。
【ふみて】
内田嘉一(晋斎、1846年–1899年)は慶応義塾に入門し、福沢諭吉の信頼を得た。『啓蒙手習之文』(福沢諭吉著、慶応義塾、1871年)の版下を内田が担当した。ひらがなが1ページに2文字ずつ大きく書かれ、カタカナが1ページにまとめて書かれている。「文字は分明でありたい」という福沢の考えを実践したものだ。
【しおり】
井上千圃(高太郎、1872年–1940年)は、大正時代の後半から国定教科書の木版の版下を引き受けており、文部省(現在の文部科学省)活字の版下も依頼された。この活字が使用された『小學國語讀本 巻八』(文部省、1939年、東京書籍)を原資料として制作した。のちに「教科書楷書体」「教科書体」とよばれるようになった書体である。
【さおとめ】
西澤之助(1848年–1929年)が創立した国光社は伝統的な女子教育の雑誌 『女鑑』 で知られるが、多くの教科書を発行している大手教科書会社でもあった。『尋常小學國語讀本 修正四版』(国光社、1901年)には、吉田晩稼(香竹、1830年–1907年)が版下を書いたといわれる活字書体で組まれている。
【まどか】
『富多無可思』(青山進行堂活版製造所、1909年)の青山安吉(1865年–1926年)による「自叙」は四号楷書体活字、竹村塘舟による「跋」は四号明朝体活字で組まれているが、その和字書体は共通している。東京築地活版製造所の四号活字書体と同系統だと思われる。
【ほくと】
太平洋戦争後の1946年(昭和21年)から1950年(昭和25年)までの約四年間、北海道では札幌市を中心として出版ブームがおこった。『新考北海道史』(北方書院、1950年)もその1冊である。印刷は興国印刷。この本の「序」と「まえがき」にもちいられた活字を復刻した。
【うぐいす】
太平洋戦争後には連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の一連の新聞解放政策によって、全国各地で数多くの新聞が生まれた。これらは「新興紙」といわれ、その数は1,000紙以上といわれている。朝日新聞系の『九州タイムズ』(九州タイムズ社、1946年4月14日付)の活字書体をベースにして制作した。
【いしぶみ】
明治時代にも建碑は盛況で、名だたる書家が携わり字彫専門の石工もあらわれた。落合直澄〔なおずみ〕(1840年–1891年)の顕彰碑である「槙舎落合大人之碑」(1891年頃、雑司ヶ谷霊園)の揮毫は華族女学校教科事業嘱託・阪正臣〔ばんまさおみ〕(1855年–1931年)の手になる。
【くろふね】
大正時代に謄写版印刷で、草間京平(1902年–1971年)によって考案された「沿溝書体」によって、書写のゴシック体が確立したといえる。山形謄写印刷資料館で『沿溝書体スタイルブック』(日本孔版文化の会、1942年)を借りることができたので、この字様からデジタルタイプ化していった。