江戸時代の木版印刷の字様に興味を持ったのは、カタカナと同じように一字一字が独立したひらがなの成立を知りたいと思ったからである。江戸時代の木版印刷にみられる素朴なイメージの字様を、私は「和字ドーンスタイル」と名付けている。和語で「ひのもとのめばえ」体ということもある。
『仮字本末』をベースにして制作した「さきがけ」は、「和字書体三十六景」第3集(2005年)のなかの1書体として発売された。和字書体三十六景に含まれる『字音假字用格』をベースにした「もとい」、2008年の時点では未制作だった「和字書体十二勝」に含まれる「うえまつ」を制作した。「もとい」「うえまつ」「さきがけ」それぞれに、三者三様の泥臭い書風がある。
同じ和字ドーンスタイルでも幕末の活字書体である「あおい」(和字書体三十六景に含まれる)、さらには和字書体十二勝として制作した「ひふみ」、明治時代初期の活字書体「にしき」(いずれも和字書体十二勝)は比較的柔らかいイメージがある。
和字ドーンスタイルに含まれる「もとい」「うえまつ」「さきがけ」のうち、もっとも標準的な書体は「さきがけ」だろう。「さきがけ」を取り上げることにする。
伴信友(1773年–1846年)の生誕の地、福井県小浜市を訪ねたのは2004年8月、私が50歳になったばかりのときだ。
小浜駅前の観光案内所で地図をもらった。レンタサイクルを勧められたが、そう遠くでもなかったので徒歩で巡ってみることにした。墓は福井県小浜市の発心寺にあった。また、伴信友顕彰碑は、発心寺から佛国寺へ向かう参道の山裾にあった。
伴信友は江戸後期の国学者である。若狭小浜藩士で、通称を州五郎、号を事負〔ことひ〕という。信友は山岸維智〔これとも〕の子として生まれた。幼くして伴信冨〔のぶまさ〕の養子となり、江戸に出て小浜藩校「講正館」に学んだ。本居宣長の著書を読んで感激して入門を決意したのだが、入門の願いがとどいたのは宣長が亡くなったあとのことだった。
信友は、歴史の研究、古典の考証にすぐれた業績を残しているが、代表作としてあげられるのが『仮字本末』だ。信友の遺稿をその子信近が校訂し、長沢伴雄(1806年–1859年)の序を添えて、江戸・大坂・京都の書肆から刊行された。刊本は上巻之上、上巻之下、下巻、付録の合計四冊からなっており、朝鮮綴で薄紺色無地の表紙がつけられている。
『仮字本末』にあらわれたひらがなの書体は、連綿もみられるものの、カタカナに対応して一字一字が独立したスタイルになっている。もともとの版下は書写されたものと思われるが、彫刻する過程において少しアウトラインの単純化が顕著にみられ、それがやや硬めの印象を受けた。『仮字本末』から、和字書体「さきがけ」を制作することにした。
『解体新書』の翻訳に関わった中川淳庵、杉田玄白も若狭小浜藩の人だ。小浜公園に隣接する高成寺の境内には「中川淳庵先生之碑」があり、小浜駅近くにある公立小浜病院の正面には「杉田玄白之像」が建っている。
国学の伴信友、蘭学の中川淳庵、杉田玄白ときたら、儒学(陽明学)の中江藤樹も訪ねてみたいと思った。小浜駅からバスでJR湖西線安曇川(あどがわ)駅(滋賀県安曇川町、現在は高島市)へ向かった。安曇川駅前に「近江聖人中江藤樹像」があった。そこから徒歩10分ぐらいの「近江聖人中江藤樹記念館」にも足を伸ばしてみた。