江戸時代の木版字様を「和字ドーンスタイル」ということにする。
『字音假字用格』(本居宣長著、錢屋利兵衞ほか刊行、1776年)をベースにして制作したのが「もとい」である。それを本文用として深化させたのが「もとおり」だ。
『神字日文伝』(平田篤胤著、1824年)をベースにして復刻した和字書体「ひふみ」(和字書体十二勝)もこのカテゴリーに含まれる。さらに幕末の活字書体である「あおい」もこのカテゴリーに分類しておきたい。
「和字ドーンスタイル」に入れている「もとおり」「ひふみ」「あおい」の3書体のうち、中心となるのは「ひふみ」だと考えている。
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伴信友は本居宣長没後の門人であるが、平田篤胤〔ひらたあつたね〕(1776年–1843年)もまた本居宣長没後の門人と自称している。伴信友が歴史の研究、古典の考証にすぐれていたのにたいし、平田篤胤は復古神道を鼓吹し幕末の尊王攘夷運動に影響を与えた。没後の門人というのはわかるが、自称!門人というのは首をひねりたくなる。しかし、印刷書体をみると、継承者にして好敵手といえるのではないだろうか。
平田篤胤は秋田藩士・大和田祚胤の四男で、20歳のとき脱藩して江戸に出て、さらに5年後、備中松山藩士の平田篤穏の養子となっている。1841年(天保12年)に、著作が幕府筋の忌むところとなり、著述差し止めのうえ国元帰還を命ぜられ、秋田藩士となった。
『神字日文伝』は、上巻、下巻、付録からなる。1819年(文政2年)に成立した。漢字伝来以前に日本に文字が存在したと主張している。『仮字本末』と同様に、『神字日文伝』のひらがなの書体は(連綿も多くみられるが)、カタカナに対応して一字一字が独立したスタイルになっている。もともとの版下は毛筆で書写されたものと思われるが、硬筆書写のような印象を受ける。私は『仮字本末』とは対照的におおらかなイメージがあると見た。
欣喜堂では、『神字日文伝』から和字書体「ひふみ」(和字書体十二勝)を制作した。
ちなみに「平田篤胤之奥墓」は、「秋田大学大学院国際資源学研究科附属 鉱業博物館」の南から徒歩すぐのところにあり、墓所は国の史跡に指定されている。遺言により、衣冠束帯の姿で葬られ、墓石は本居宣長の没した伊勢国松坂(現・三重県松阪市)の方角に向けられていると伝えられている。