拙著『活字書体の履歴書[青春朱夏編]で「私がもっとも魅せられた書体」と書いておきながら何のサンプルも見せられなかった写研の仿宋体(倣宋体)の簡体字文字盤があったとの嬉しい知らせが届いた。
簡体字文字盤なので日本語の文章を組むことが難しい。そこで日本語と同じ字体の漢字を集めたサンプルを印字してもらった。擬似的ではあるが、これが日本語の「紅蘭細宋朝」の見本ということになる。
この書体は、中華書局聚珍仿宋版活字に近い印象である。長宋体をベースにした「石井宋朝体」よりも広範囲に使えるのではないかと思っていた。しかしながら国内では宋朝体は需要が無いということだっただろうか、日本語版「紅蘭細宋朝体」として発売されなかったことが惜しまれる。
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「ひふみ」は、和字書体十二勝(2019年)のなかの1書体として発売された。あらかじめ組み合わせて使用できる漢字書体の候補は、浙江地方の宋朝体の系譜——中国・北宋、南宋の代表的な刊本字様および中華民国時代の金属活字である。
[北宋]
中国・宋は、後周の節度使(軍職)であった趙匡胤〔ちょうきょういん〕が、後周のあとを承けて960年に建国した。汴京〔べんけい〕(開封〔かいほう〕)を都とし、文治主義による君主独裁制を樹立した。
北宋の時代(960年–1127年)、つまり首都が汴京にあったときでも、杭州のある浙江地方はもともと木版印刷の伝統があり、また紙の産地だったので、出版産業がおおいに発展していた。交通や産業が発達して経済が豊かであり、文学が活発だったことも、出版産業が栄えた要因としてあげられる。
浙江地方の刊本は官刊本が中心で、唐代の碑文の書風、とりわけ初唐の楷書の代表とされている「九成宮醴泉銘」(632年)に近い写刻本として刊行された。
代表的な書物である『姓解』(1038年–1059年、国立国会図書館所蔵)は、中国古来の姓氏2568氏を170部門に分けて配列し、姓の起源・著名人・掲載書をあげ、発音をしるす字書となっている。
欣喜堂では、『姓解』の字様をベースにして、「西湖」という宋朝体を試作した。書体名は、杭州を代表する観光地、西湖から取った。
[南宋]
1127年、金の侵入により江南に移り、都を臨安に置いたので、それ以前を北宋といい、1279年に元に滅ぼされるまでを南宋(1127年–1279年)という。
南宋の都、臨安(現在の杭州)には多くの書坊が建ち並んでいた。宋朝の国力の衰えた時期にも、臨安の街ではまだ活発な商業活動が行われていた。そのなかでも、陳起の陳宅書籍鋪が刊行した書物は注目をあびた。
陳宅書籍舗が臨安城中の棚北大街にあったことから、その刊行物を臨安書棚本という。陳宅書籍鋪では、整然として硬質な字様を完成させた。詩の選集を多数刊行したことで知られる。また、陳起は才能に恵まれながらも無名だった民間の詩人たちと親交を結び、『南宋羣賢小集』(陳宅書籍鋪、1208年–1264年)を編纂、刊行した。
陳起はとくに詩の選集を多数刊行したことで知られ、唐代から宋代にかけての著名な詩人はほとんど漏らしていない。また、陳起は才能に恵まれながらも無名だった民間の詩人たちと親交を結び、その作品が世に広まり伝わることに力を尽した。『南宋羣賢小集』の羣賢とは大勢の知識人のことだ。
欣喜堂では、もういちど陳宅書籍舗の臨安書棚本字様に立ち返って、筆法・結法を分析したうえで、「陳起」という宋朝体を制作した。「陳起」のベースにしているのは、『南宋羣賢小集』の刊本字様である。書体名は、いうまでもなく、陳宅書籍鋪の陳起から採った。
[近代]
聚珍仿宋版活字は、1916年に丁善之と丁輔之の兄弟が聚珍仿宋版活字を製作し、丁輔之によって聚珍仿宋印書局が設立されたことに始まる。聚珍仿宋印書局は1921年に中華書局に吸収合併され、そのさいに聚珍仿宋版活字の権利も中華書局に譲渡された。
『唐確慎公集』(中華書局、1921年)は上海・中華書局聚珍倣宋版活字で組まれている。中華書局の聚珍仿宋版活字は、陳起の陳宅書籍鋪による字様を源流としているようだが、比べてみるとより安定感が増している。これは、当時すでに普及していた近代明朝体活字の影響を受けたということかもしれない。
わが国では名古屋・津田三省堂らが聚珍仿宋版を導入し「宋朝体」と名付けた。津田三省堂の宋朝体には縦横同じ幅の方宋体と縦に細長い長宋体があったが、長宋体の方が目新しい感じがあって、一般には喜ばれていたようだ。写研の石井細宋朝体は、津田三省堂の長宋体を復刻したものである。
上海・中華書局聚珍倣宋版活字で組まれた『唐確慎公集』を原資料として、「七夕」を試作している。