2020年09月30日

[本と旅と]織田信長の安土城をゆく(2005年)

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山本兼一『火天の城』とともに

山本兼一の『火天の城』は、織田信長から近江安土に「天高くそびえ立つ天下一の城を作れ」と命ぜられた尾張熱田の宮大工・岡部又右衛門が、安土城を完成させるまでを描いた小説である。


安土セミナリヨ跡

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2005年8月、私はJR安土駅に降り立った。駅前の安土観光レンタサイクル(ふかお)から声がかかった。電動アシスト自転車を勧められた。サイクリングのモデルコースの資料にマーカーで印をつけながら、案内してくれた。せっかくなので、このコースに従っていくことにしよう。
はじめて電動アシスト自転車に乗ったが、これはいい。ぐんぐん進む。まず、めざしたのは安土セミナリヨ跡である。数分で到着した。
イエズス会巡察師ヴァリニャーノは、日本人の司祭・修道士を育成することが日本布教の成功の鍵を握るとみていた。宣教師に対して好意的であった織田信長の許しを得て、安土城下に神学校(セミナリヨ)のための土地を譲り受けた。1580(天正8)年、宣教師オルガンティーノによって日本最初のセミナリヨが建てられた。
『火天の城』では、京都の教会の建て直しについて、設計を担当するオルガンティーノと、施工を担当する大工たちとのやりとりの様子が次のように描かれている。これが安土のセミナリヨの建築へとつながっていくのだろう。

故郷のイタリアにあるようなロマネスク風の建築にしたかったが、半円アーチを使った図面を見せると、大工たちは、即座に「無理だ」と首をふった。
「丸い壁も屋根も、つくったことがないので、できない」
というのである。どんなに説得しても、首を縦にふらなかった。
オルガンティーノは、大工にできる日本建築の範囲で設計と意匠をつくし、できるだけ壮麗な教会堂になるよう工夫した。


安土のセミナリヨは安土城炎上の際に焼失してしまった。現在はその跡地の一部がセミナリヨ史跡公園として整備されている。公園の入り口には「セミナリヨ趾」の碑が建てられている。


安土城大手道・伝羽柴秀吉邸・伝前田利家邸・伝徳川家康邸跡

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百々橋(どどばし)を渡り、右へ曲がって大手道休憩所へ向かう。ここで自転車を置き、石段を登ることにする。大手道だ。
表玄関に当たるのが大手門跡である。大手門の東側に東虎口、西側には西虎口と枡形虎口があった。城の正面に四つの門があるのは当時の城郭では考えられないスケールだそうだ。
大手道は、大手門から天主・本丸に至る大通りである。大手門から山腹まで約180メートルにわたって直線的に延びている。道幅は約6メートル。その両側に幅1メートルの石敷側溝(いしじきそっこう)があり、その外側には高い石塁(せきるい)が築かれている。
『火天の城』には、織田信長が岡部又右衛門たちに大手道について説明するシーンがある。

城の本丸への道は、細く幾重にも折れ曲がらせるのが、常套的な築城術である。攻め寄せた敵を集団のまま城内に入れず、分断して個別に撃破するためだ。信長の発想は、常識を真っ向から否定している。
「これでよい。山頂までに三度曲げれば、防備は充分だ」
「されど、定法とはちがう築城にござれば……」
三間幅のまっすぐな大手道などつくっては、敵をわざわざ歓迎しているようなものだ。
「帝(みかど)のお通りまします道だ。あまりゆがめられもすまい」
「みかど……、帝とおっしゃったか」
驚いてざわめいた一同のなかでも、一番大きな声をあげたのは、岡部又右衛門だった。
「本丸には帝のために、清涼殿を建てよ。内裏(だいり)と同じ間取りにするがよい」
信長のひろい額が、高慢そうに光っている。又右衛門が、膝を打った。


道の左側は伝羽柴秀吉邸跡である。郭(くるわ=造成された平地)が上下2段にわかれた大規模な屋敷で、下段郭の入口には櫓門が、上段郭の入口には高麗門が存在したが、今は案内板があるのみだ。下段郭は馬6頭を飼うことのできる厩(うまや)があり、上段郭には書院造り(しょいんづくり)の主殿を中心に、隅櫓(すみやぐら)など多く建物で構成されていたという。
道の右側には、伝前田利家邸跡である。伝羽柴秀吉邸跡と同じような構造だが、その配置には大きな違いがあり、こちらは複数の郭に分かれている。こちらも案内板があるのみだ。そこから少し上に伝徳川家康邸跡があるが、その地には1932(昭和7)年に摠見寺仮本堂が建てられている。


安土城天主台・本丸・二ノ丸跡

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黒金門(くろがねもん)跡から先が安土城中枢部である。標高が180メートルの安土山の最も高いところにある。東西180メートル、南北100メートルに及ぶ安土城中枢部は高く頑丈な石垣で固められている。建物は全て焼失したため、石垣と礎石によってのみ往時を偲ぶことができる。この石垣は400年以上にわたって崩れることなく、ほぼ原型を保ってきていることに驚かされる。
黒金門から安土城の二の丸跡と進んでいく。二の丸跡は、織田信長本廟が1583年(天正11年)2月に羽柴秀吉によって建立されている。信長の太刀や烏帽子、直垂(ひたたれ)などの遺品が埋葬されているそうだ。
本丸跡も碁盤目状に配置された119個の礎石(そせき)が残るのみである。この礎石の配列状況は、当時の武家住宅に比べて規模と構造の特異性がうかがえる。天皇の住まいである内裏清涼殿と非常によく似ているというのだ。やはり本丸御殿は天皇行幸のために用意された行幸御殿だったのだ。
さらに登っていくと安土城天主台跡(安土城だけは天守ではなく天主と表記する)に到着する。1メートル以上の高さの石垣に囲まれた、東西、南北それぞれ約28メートルの広さである。ここには礎石が1、2メートルおきに整然と並べられている。ここは地下の部分で、この上に地下一階、地上六階の安土城天主が建てられていた。居住空間のある初の高層建築で、信長自身もここ住んでいたのだ。
『火天の城』では、岡部又右衛門が天守台の設計を考える様子を描写している。

——木をどのように組めば、七重の建物が安定して立ち続けるのか。
岐阜で信長に築城を命じられた時から、又右衛門は、ずっとそのことを考えていた。ああでもない、こうでもないと、浮かんでくるいくつもの木組みを、笊(ざる)で篩(ふるい)にかけるように選別し、ひとつの結論に達した。
地下蔵の礎石から四重まで四本の大通柱(おおとおしばしら)を立てる——。それが又右衛門の結論だった。
正方形に配置した大通柱に、一抱えもある太い梁(はり)を、各重でがっしり組み込ませれば、天主の骨格が頑丈にできあがる。


この設計をもとに木組雛形を作って実験をし、材料を調達し、普請(土木工事)と作事(建築工事)を行なって、巨大な安土城を竣工させるまでの悪戦苦闘を感動的に描いている。
安土城天主台跡の石垣に登ってみる。ここからの琵琶湖の眺望は素晴らしい。
帰りは摠見寺道(百々橋道)から降りる。途中、摠見寺本堂跡、摠見寺三重塔、楼門(仁王門)金剛二力士像を巡る。摠見寺は織田信長が安土城築城にあわせて建立した寺院である。こうした寺院が城郭内に建てられているのは安土城だけだ。
モデルコースに従い、サイクリングを続ける。安土城天主信長の館、安土城考古博物館、そして安土町城郭資料館を巡る。安土町城郭資料館には安土城が20分の1のスケールで再現されている。安土城天主信長の館には天主5階、6階が原寸大で復元されている。


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2020年09月29日

[本と旅と]松尾芭蕉の山形路を辿る(2004年)

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橋本治『橋本治のおくのほそ道』とともに

弟が山形へ転勤になったので、母が一度行ってみたいと言い出した。私もそれに便乗して付き合うことにした。
2004(平成16年)年5月28日、金曜日。東京駅で母と待ち合わせて、東北・山形新幹線で山形駅へ。弟が出迎えてくれた。駅前から路線バスで、弟が予約してくれていた中桜田温泉「ウェルサンピア山形」(山形厚生年金休暇センター)に向かう。

立石寺

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5月29日(土)朝、山形駅からJR仙山線に乗車し20分ほどで山寺駅へ。そこから徒歩で宝珠山立石寺、通称山寺へ。弟が山寺観光ガイドの方を予約してくれていて、根本中堂の前あたりで落ち合う。
根本中堂は立石寺という御山全体の寺院の本堂に当たる御堂である。堂内では、本尊として慈覚大師作と伝えられる木造薬師如来坐像をお祀りし、脇侍として日光・月光両菩薩と十二支天、その左右に文殊菩薩と毘沙門天を拝することができる。
まずは松尾芭蕉像と句碑の説明と記念撮影からスタート。『橋本治のおくのほそ道』(橋本治著、講談社、2001年)の現代語訳では、次のようになっている。

二十八 立石寺

山形領に立石寺という山寺がある。慈覚大師が開かれた寺で、とりわけすがすがしい場所だから、ぜひ、見にいくように人々がすすめてくれた。そこで、尾花沢から七里ほどもどった。
日暮れにはまだ時間があったので、ふもとの宿坊に泊まる手はずをしておいて、山の上の僧堂まで登った。山は大きな岩を積み重ねたような形で、松、杉、柏など常緑の老木が生いしげり、地面にも石にもびっしりと苔がつき、岩の上に建てられたどの寺も扉をしめていて、物音ひとつきこえなかった。
崖から崖へ、岩から岩へとめぐり歩きながらつぎつぎに寺を拝観してまわった。景色はこのうえなく美しく、あたり一帯が静まりかえっていて、心が澄みきっていくのを感じたものである。

閑さや岩にしみ入る蝉の声


ガイド人の説明を聞きながら、山門から始まる長い階段をゆっくりと上がって行く。説明によれば石段の数は800段以上だという。観光客は多いのだが、老木の緑に囲まれて静かだ。
途中、せみ塚というところで休憩。松尾芭蕉に連なる弟子たちがこの地を訪れた時に、芭蕉が句の着想を得た場所だとして、短冊を土台石の下に埋めて、この塚を立てたという。
開山堂は立石寺を開かれた慈覚大師の御堂で、百丈岩の上に立てられている。扉が閉じられているが、大師の木造の尊像が安置されている。隣の赤い小さな御堂は山内で最も古い建物だそうだ。奥之院で写経された法華経が納められている納経堂である。さらに、舞台のような五大堂からは山寺を一望できる。
山内には50余の建物が存在している。説明を聞きながら、さらに上へ上へと進んでいく。73歳になる母も元気に階段を上がる。参道の終点が奥之院。奥之院は通称で、正しくは「如法堂」という。慈覚大師が中国で持ち歩いていたとされる釈迦如来・多宝如来の両尊を御本尊としている。また左側の大仏殿には金色の阿弥陀如来が安置されている。
国指定重要文化財に指定されている三重小塔は、室町時代に建てられた三重塔の遺構で、内部には三重塔の本尊である大日如来像が安置されている。岩窟内に納められているうえに、ガラス格子戸が厳重に張られ、その全容を見ることはできない。
山寺の対岸の小高い丘の上にある「山寺風雅の国」で昼食。すぐそばにある「山寺芭蕉記念館」にも立ち寄る。米倉斉加年主演の映画「おくの細道 百代の過客」などを見たりしてのんびりと過ごす。


最上川

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翌30日(日)、山形駅前から定期観光バス「べにばな号」に乗る。途中、天童・竹内王将堂に立ち寄ったあと、古口港(戸澤藩船番所・乗船手形出札處)に到着。最上川芭蕉ライン舟下りである。
松尾芭蕉も、新庄市本合海から庄内町清川まで最上川を船で下っている。『橋本治のおくのほそ道』では、次のように訳されている。


二十九 最上川

最上川を舟で下ろうと考え、大石田という場所で天気が好転するのを待つことにした。
この地には古い俳諧につながるものが生きていて、本来の面白さをもとめる気持ちを、人々がまだもちつづけてくれている。ほんの片田舎なのに、風雅の道で心をなぐさめもし、足先でいくべき方向をさぐるようにして、いま流行の俳諧に身をよせるか、古来の道を守ろうかとまよっている。だが、こちらがわが正しいのだと教えてやる指導者がいない。そこで、やむをえず、歌仙一巻を巻き、それを残していくことにした。こんどの風流をもとめる旅は、はからずもこんな結果を生み出すことになった。
最上川の源流は陸奥にあり、山形あたりが上流にあたる。その流れには、碁点とか隼とかいう恐ろしい難所がほうぼうにある。それらを通過し、歌枕の地板敷山の北を下って、最後は酒田で海にはいっている。
流域の左右はおおいかぶさってくるほどの山で、木々がはえしげった中を、舟に身をまかせていくのである。その舟に稲を積みこんだのが、古歌に詠まれた稲舟というものなのだろうか。
名高い白糸の滝は、青葉にうまった中を落ちていて、仙人堂は川岸ぎりぎりの場所に建てられている。そんな川を下るのだから、水量が豊かなせいもあって、舟が何度となく転覆しそうな危うい目にあった。

五月雨をあつめて早し最上川


最上川舟下りの最大の魅力は、船頭さんが自慢の美声を披露してくれる「最上川舟唄」である。外国からの観光客も多いのだろう、山形訛りの英語や中国語の舟唄も披露していただいた。船頭さんの方言たっぷりな案内も魅力的である。
源義経一行が奥州藤原家(岩手県平泉)に向かう途中、船で最上川を遡って逃げたという伝説が残っている。義経の馬を休憩させて轡(くつわ)を洗ったとされる「馬爪岩」、弁慶があやしい人影めがけて投げた石がめり込んだという「弁慶の礫(つぶて)石」などがある。最上川舟下りの船上から見えるというが、探しているうちに通り過ぎてよくわからなかった。
おくのほそ道に書かれている白糸の滝、仙人堂も義経ゆかりの地だ。義経の正室、北の方はこの白糸の滝を詠んだ和歌を残している。従者であった海尊(かいそん)を祀ったのが仙人堂である。海尊は一行と別れたあと、山伏修行の後に仙人になったという。


羽黒山

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およそ50分の舟下りのあと、終点の草薙港(最上川リバーポート)で昼食。 午後からは羽黒山に向かう。

三十 羽黒

六月三日、羽黒山に登った。
まず図司左吉という人をたずねていき、その人の引き合わせで、会覚阿闍利におあいした。阿闍利は南谷にある別院に泊めてくださって、なにくれとなく心づかい豊かにもてなしてくれた。
四日、本坊若王寺で俳諧を興行することになった。

ありがたや雪をかをらす南谷

五日、羽黒権現に参詣する。当山の開祖といわれる能除大師はどの時代の人であるか、よくわからない。
延喜式に「羽州里山の神社」という記述が出てくる。書きうつすときに、だれかが「黒」という字を「里山」とまちがったのかもしれないし、羽州黒山だったものを短くして羽黒山とよびだしたとも考えられる。出羽というのは、「鳥の羽毛をこの土地の貢ぎ物として朝廷におくった」と風土記にあるというから、そこから出た国名なのだろうか。この羽黒山に月山、湯殿山を合わせて出羽三山とよぶのだ。
この寺は江戸の東叡山寛永寺に属していて、天台宗の教義である止観は月のように明らかに輝いている。円頓融通の天台の伝統にしたがう天台宗の流れはますます盛んで、僧坊も棟を並べるように建ちならび、修験道にいそしむ者は、たがいに励ましあいながら守りつづけている。この霊山霊地のありがたい力を、人々はたいせつにしているばかりではなく、心からおそれてもいるのだ。そのようなありさまだから、この地の繁栄は永遠につづくだろうし、このうえなくたいせつな山だというべきだと思える。


国の重要文化財に指定されている三神合祭殿(さんじんごうさいでん)。月山・羽黒山・湯殿山の三神が合祀されている。月山・湯殿山は遠く山頂や渓谷にあり、冬季の参拝や祭典を執行することができないので、三山の祭典は全て羽黒山頂の合祭殿で行われるのだ。
合祭殿造りとも称される独特の社殿萱葺きの豪壮な建物で、一般神社建築とは異なり、一棟の内に拝殿と御本殿とが造られている。建設当時は赤松脂塗だったが、昭和45年から塗替修復工事が行われ、現在は朱塗りの社殿となっている。
一の坂の登り口、そそり立つ杉小立の間に、五重塔だけが、素木造り、柿葺、三間五層の優美な姿で建っている。ポツンと、というより、どっしりと。国宝である。付近にはもともと多くの寺院があったというが、今は何もない
継子坂を下りると、祓川(はらいがわ)に掛かる神橋に出る。神橋は、向かいの懸崖から落ちる須賀(すが)の滝と相対している。須賀だけにすがすがしい。月山の山麓、水呑沢より引水して祓川の懸崖に落したのだそうだ。
新庄駅に戻る。駅前から送迎の車で、この日の宿泊先である大堀温泉「国民年金健康保養センターもがみ」に。田園のなか建てられた、まさに保養するというイメージそのものの施設であった。


posted by 今田欣一 at 22:24| Comment(0) | 漫遊★本と旅と[メイン] | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年09月24日

「KOまどか毛晋M」のゆめがたり4

日本語書体「まどか毛晋M」の構想

「まどか」は、2005年に「和字書体三十六景第3集」のなかの1書体として発売されている。これに、漢字書体「毛晋」、欧字書体「K.E.Gemini」を加えて、「KOまどか毛晋M」とすることを構想している。

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「きざはし」+「金陵」+「K.E.Taurus」の場合と同じく、「和字オールドスタイル、明朝体、オールド・ローマン」の組み合わせを基本としている。「KOまどか毛晋M」のほか、「KOはなぶさ毛晋M」、「KOはやと毛晋M」も考えているが、「毛晋」、「K.E.Gemini」が完成していないので、今のところ構想だけにとどまっている。
このほかに、おなじ「和字オールドスタイル」に属する「きざはし」と、「和字ドーンスタイル」の「にしき」、「こみなみ」との組み合わせも可能ではないかと思っている。

KOはやと毛晋M
KOはなぶさ毛晋M
KOまどか毛晋M
KOきざはし毛晋M
KOにしき毛晋M
KOこみなみ毛晋M

posted by 今田欣一 at 07:04| Comment(0) | 活字書体の履歴書・第6章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年09月23日

「KOまどか毛晋M」のゆめがたり3

欧字書体「K.E.Gemini」のはなし(未制作)

欧字書体も候補はふたつだった。17世紀のオランダを代表するクリストフェル・ファン・ダイク(1601年−1669年)の活字書体と、18世紀のイギリスを代表するウィリアム・キャズロン(1692年−1766年)の活字書体だ。
ファン・ダイクを筆頭とするオランダのオールド・ローマン体は、独特の黒みや骨格の頑丈さをもっているために、現在では「ダッチ・オールド・ローマン」と呼ばれている。ファン・ダイクは、当時最高水準にあったアントワープのプランタン印刷所で、ギャラモン活字をしっかりと研究していたと推測されている。オールド・ローマン体の流れをファン・ダイクがうけついだといえる。
オールド・ローマン体は、イタリアで生まれ、優美なフランス活字、武骨なオランダ活字へと地域的な変化を遂げながら、ついにはイギリスに到着した。
当時のイギリスはオランダのローマン体が流行していた。キャズロン活字はアムステルダムの父型彫刻師ディルク・ヴォスケンスの活字をモデルにしたといわれるが、その武骨な特質を穏やかにして洗練さをくわえたことによって「イギリス風で快い」という称賛をえた。
両者を比べた上で、後期オールド・ローマン体のキャズロン活字(再鋳造)が使用されている『The Diary of Lady Willoughby』(1844年)から抽出したキャラクターをベースに、日本語組版に調和するように制作したのが欧字書体「K.E.Gemini」である。
「アドビ・キャズロン」は、1990年に、キャロル・トゥオンブリー(Carol Twombly , 1959年– )がウィリアム・キャズロンの活字書体をベースにした複刻書体である。「K.E.Gemini」の制作にあたり、これも参考にしている。
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2020年09月22日

「KOまどか毛晋M」のゆめがたり2

漢字書体「毛晋」のはなし(未制作)

明代の刊本字様にイメージが対照的だと思える書物がある。鄭藩の『楽律全書』と毛氏汲古閣『宋名家詞』である。前者は彫刻風の直線的で硬質の明朝体であり、後者は毛筆の筆法を残した軟質の明朝体である。
硬質の明朝体がみられる『楽律全書』は、中国音楽における十二音律の研究で、その時代の音楽理論研究の最先端をいくものだということである。楽律とは、楽音を音律の高低に従って並べた音列のことで、中国音楽では十二律だ。十二律は基音を長さ九寸の律管の音としている。
『楽律全書』は15種48巻の書物である。律呂精義外篇巻10から霊星小舞図までは、楽器、演奏、舞踊などに関する絵図が中心となっている。漢字書体「鳳翔」のベースとしたのは、この『楽律全書』である。
軟質の明朝体がみられる『宋名家詞』は、毛氏汲古閣の出版物において世に知られている書物のひとつである。書写の風格のある明朝体だ。これをベースにして漢字書体「毛晋」を試作している。
汲古閣には84,000冊の書物が収蔵され、さらには650種以上の刊本が出版された。それらは「汲古閣本」「毛本」などと呼ばれ、現在に至るまで、良質のテキストとして広く流通している。宋代に刊刻された書物の多くが、毛晋の手を経て今に伝わっており、文化の保存と伝播に大きく貢献したといえる。

当初は「鳳翔」が優勢だった。しかし「毛晋」も捨てがたいものがあった。組み合わせる和字書体を考慮に入れると「毛晋」のほうがマッチするように思えてきた。「毛晋」の大逆転である。
posted by 今田欣一 at 08:38| Comment(0) | 活字書体の履歴書・第6章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする