和字カーシヴの系譜は多彩である。欣喜堂で制作した書体だけでも、平安時代から室町時代の写本から復刻した「あけぼの」、「やぶさめ」、「たかさご」、「さよひめ」、安土桃山時代から江戸時代初期の古活字版からの「ばてれん」、「さがの」、江戸時代の木版印刷からの「げんろく」、「なにわ」、「えど」、「すずのや」、明治時代の金属活字からの和様活字「いけはら」まで含まれる。
和字セミ・カーシヴでは、行書体活字「ひさなが」と「ゆかわ」、さらには碑刻の行書体「いしぶみ」もある。
この中で一つだけ挙げるとすれば、やはり「ばてれん」であろう。「ばてれん」は、和字書体三十六景第二集(2003年)のなかの一書体として発売された。
「ばてれん」の原資料は、天理図書館善本叢書の『きりしたん版集一』(1976年、天理大学出版部)所収の『ぎやどぺかどる』の影印である。『ぎやどぺかどる』は日本国内では上巻が天理図書館にあるのみだ(上下巻がそろった完本は、ヴァチカン図書館と大英博物館にある)。
アレッサンドロ・ヴァリニャーノ(1530年–1606年)は天正少年遣欧使節団を立案し、活字版の印刷技術を日本に持ってくることを考えた。天正遣欧少年使節には、伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルチノ、中浦ジュリアンの少年使節のほかに、引率者としてイエズス会修道士メスキータ(ポルトガル人)、随員として助修士ジョルジュ・デ・ロヨラ(1562年?–1589年、日本人)と少年コンスタンチノ・ドラード(1567年?–1620年、日本人)が加わっていた。
ヴァリニャーノは、使節団の随員ロヨラとドラードに活版印刷機の購入と印刷技術の習得を課していた。ロヨラとドラードはポルトガルで、活字の鋳造と印刷技術を学んだと思われる。ロヨラは帰国途中のマカオで死去したので、キリシタン版の印刷はドラードによってなされた。
天正遣欧少年使節および随員のうち文字が書けたのはロヨラだけだったということから、キリシタン版活字の原字はロヨラが書いたという説を聞いたことがある。
もしロヨラがキリシタン版活字の原字を書いたのだとしたら、日本で最初期の活字書体設計師ということになろう。名前の知られた書家ではなく、ひとりの若者によって書かれたということになる。しかも西洋の活字鋳造と印刷技術の職人でもあったのだ。
欣喜堂の和字書体は、原則として和語で書体名をつけているが、この書体はいい案が思いつかなくて、外来語である「ばてれん」(ポルトガル語のpadre から、宣教師の意)とした。なかば苦し紛れであったのだが、ロヨラからヴァリニャーノに向けての尊称だと考えれば、とてもいい名前だと思っている。