欣喜堂で試作した明朝体は「金陵」、「嘉興」、「鳳翔」、「毛晋」の四書体である。この中から、まずは「金陵」か「嘉興」かのどちらかを制作することにした。
漢字書体「金陵」のベースにしたのは、南京国子監本『南斉書』である。わが国には、これとは別の『南斉書』がある。日本で覆刻されたので、これを和刻本『南斉書』と言っている。1703年(元禄16年)–1705年(宝永2年)に、川越藩柳澤家が荻生徂徠に命じて、南京国子監本『南斉書』を、返り点をつけたうえで覆刻したものだそうだ。汲古書院から出ている「和刻本正史シリーズ」は、これらの影印である。『和刻本正史 南齊書』(長澤規矩也 編、汲古書院、1984年)もこのシリーズに含まれている。
中国の原本と比べると日本の覆刻はかなり見劣りがする。もともと欣喜堂の「漢字書体二十四史」は中国の刊本のなかから選定したものである。「金陵」は南京国子監本『南斉書』をベースにしており、和刻本『南斉書』は参考にしていない。
漢字書体「嘉興」のベースにしたのは、楞厳寺版『嘉興蔵』である。楞厳寺版『嘉興蔵』を、1678年(延宝6年)に覆刻したのが、鉄眼版『一切経』である。鉄眼は、日本に流布している大蔵経がないので、隠元を訪ねて楞厳寺版『嘉興蔵』をもらい受けたという。この鉄眼版『一切経』の版木は萬福寺・宝蔵院に納められており、国の重要文化財に指定されている。
とは言え、川越の明朝体(和刻本『南斉書』)が、宇治の明朝体(鉄眼版『一切経』)ほどには知られていないのは残念だ。どちらも中国の刊本の覆刻であることに違いはない。明朝体は中国で発展してきたものであり、中国から輸入されたものなのだ。
日本語としてどちらが使いやすいかを考えて、まず「金陵」を制作することにした。「きざはし」の原資料『長崎地名考』は近代明朝体との組み合わせだが、動的な結構は「金陵」に合うように思われた。
できるだけ原資料を忠実に「再生」しようとして、独自の解釈はしないように心がけた。それでもなおかつ、そこに自分の筆跡のようなものが醸し出されているとしたら、それが真の個性というべきものなのかもしれない。
名称は「金陵」である。「正調明朝体」というのは書体名ではなくて、キャッチフレーズなのだ。朗文堂でCDジャケットを作成するときに、「明朝体」という語をつけないと売れないということで、このキャッチフレーズになった。
総合書体のフォントデータには、書体名「KOきざはし金陵M」「KOあおい金陵M」「KOさおとめ金陵M」、コピーライト「有限会社今田欣一デザイン室」と入っている。登記の際に深く考えず「有限会社今田欣一デザイン室」としてしまったが、今では「欣喜堂」にしておけばよかったなと思っている。
CDR版については、CDジャケットはもちろん、朗文堂ウェブサイトはもちろん、ブックレットなども朗文堂で作成していただいている。最初のブックレットの「まだ四角四面は好きですか?」というフレーズではじまるテキストは朗文堂によるものだ。朗文堂の主張を色濃く反映した文章は、制作者ではとても書くことのできないものだ。販売促進のためには、ある程度のインパクトは必要なのだ。
ユーザーにアピールするためには、現在の状況から考える必要がある。現代の本文用明朝体にたいしての「正調明朝体」であり、「まだ四角四面は好きですか?」という問いかけである。現代の本文用明朝体との違いをあきらかにして販売を促進しようという作戦なのである。
ユーザーからは「明朝体を手書き風にした書体」というコメントが実に多いのだ。現在の明朝体から見れば、決して間違いではない。使用する上では、南京国子監の『南斉書』を復刻したものであることなど、あまり関係ないのだろう。
ただ制作者としては、純粋に「中国・明代の刊本字様を、現代の日本語組み版で使えるようにしたい」ということだけだったのである。歴史的には、明朝体を手書き風にした書体ではなく、宋朝体を直線的にした書体である。ましてや意図的に抱懐を締めて、古拙感を出そうとしたのでもない。この意味で「正調明朝体」というキャッチフレーズは合っているのだろう。
「金陵」という復刻書体について、「個性を感じる」というコメントがあった。もちろん、原資料そのままの「再現」ではなく、現代の活字書体としての適性を考慮した「復刻」ではある。それでも復刻書体なので、むしろ没個性だと思っていた。
できるだけ原資料を忠実に「再生」しようとして、独自の解釈はしないように心がけた。それでもなおかつ、そこに自分の筆跡のようなものが醸し出されているとしたら、それが真の個性というべきものなのかもしれない。