2020年11月18日

「KOめじろ上巳M」のゆめがたり3

欧字書体「K.E.Leo」のはなし(未制作)

和字書体「めじろ」、漢字書体「上巳」と組み合わせる欧字書体として候補になったのは、モダンローマンもしくはラショナリスト(rationalist)と分類される「ディド(Didot)」、「ボドニ(Bodoni)」、「スコッチ・ローマン(Scotch Roman)」であった。


「ディド(Didot)」
フランスのフェルミン・ディド(1764–1836)が設計した、ステムが直線的に構成されるという特徴がある活字書体が「ディド(Didot)」である。
ディド家は18世紀から19世紀にかけて、印刷者、出版者、活字鋳造業者、発明者、作家や知識人を輩出した家系だったが、1800年ごろにはディド家ではフランスでもっとも重要な印刷所と活字鋳造工場を所有した。兄のピエール・ディド(1761–1853)によって、弟のフェルミン・ディドが設計した活字をもちいて印刷した出版物が発表されている。

「ボドニ(Bodoni)」
イタリアのジャンバティスタ・ボドニ(1740–1813)によって1790年以降に設計した、極細でブラケットのないセリフで、コントラストのつよい直線的で機械的な外観の書体が「ボドニ(Bodoni)」である。
ボドニはイタリア・トリノ郊外のサルッツォで、印刷職人の子として生まれた。トリノのマイアレッセ工房で修業し、さらにローマのカトリック教会の印刷工場では活字父型彫刻師としての評価をえるまでになった。二八歳のときにパルマ公国印刷所に招聘されているが、ボドニが活字父型彫刻師として目覚めたのは50歳になってからだったという。

「スコッチ・ローマン(Scotch Roman)」
イギリスのリチャード・オースティン(?–1830)は、1809年から1812年ごろにかけてグラスゴウのウィリアム・ミラー活字鋳造所のために活字書体を手がけた。この書体は1936年に「スコッチ・ローマン(Scotch Roman)」となった。
スコットランドの印刷者のつくったローマン体という意味で名づけられた「スコッチ・ローマン」は、その類似書体もふくめて、19世紀から20世紀はじめにかけてイギリスとアメリカで急速にひろまっていったといわれる。

この3書体を検討した結果、活字書体「K.E.Leo-Medium」はボドニの書体を選択し、『チメリオ・ティポグラフィコ』(1990年復刻版)から抽出したキャラクターをベースに日本語組版に調和するように制作した。
posted by 今田欣一 at 08:29| Comment(0) | 活字書体の履歴書・第6章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年11月17日

「KOめじろ上巳M」のゆめがたり2

漢字書体「上巳」のはなし(未制作)

「欣喜堂ではフツーの明朝体とか、フツーのゴシック体は作らないんですか?」
と言われたことがある。この人の言うフツーの明朝体、フツーのゴシック体というのは、近代明朝体と近代ゴシック体を指しているようだ。
近代明朝体と近代ゴシック体については、大手フォント・メーカーが「基本書体」と位置づけて、バージョンアップや字種拡張している。ヒラギノ明朝/ゴシック、小塚明朝/ゴシック、筑紫明朝/ゴシック、游明朝/ゴシックなど、新しく開発された書体も多い。また、秀英明朝/ゴシック、凸版文久明朝/ゴシックといったような大手印刷会社が保有している書体の改刻も相ついでいる。
さらには、「ニュアンス系明朝体」と名付けている近代明朝体のバリエーションもある。ニュアンス (nuance)とは、言葉などの微妙な意味合い、色彩・音色などの微妙な差異のことをいう。微妙な差異のある近代明朝体ということだろうか。最近では、「エキセントリック系明朝体」というべきものまで出てきて賑やかなことである。このような新奇な明朝体まで含めると、まさに近代明朝体花盛りといった状況である。
そんななかで、欣喜堂で新しく近代明朝体/近代ゴシック体を開発するメリットはない。むしろ、技術的なことや字種・字数の点でのリスクは大きい。販売ということからも、零細企業で太刀打ちできることではない。たとえ書風や品質に自信があったとしても、経営的にはどうにもならないだろう。
欣喜堂が本文用を志向していることに違いはない。ただし現状の近代明朝体中心から脱して、本文書体の可能性を拡大させることが社会的な役割だと考えている。それでも「漢字書体二十四史」と銘打っている以上は、近代明朝体もラインナップに入れておきたかった。

『旧約全書』(美華書館、1865年)
ウィリアム・ギャンブル(William Gamble 姜別利、1830−1886)は、中国語の印刷技術に大きな功績を残しているが、最大の功績が木製種字と電鋳母型という活字製造法を考案したことにある。この方法で製造された五号活字をもちいて印刷された書物が『旧約全書』である。

『座右之友』(東京築地活版製造所、1895年)
『座右之友』所載の「五號明朝」は、美華書館の明朝体を継承し、改良したものと考えられる。

『中国古音学』(商務印書館、1930年)
商務印書館は当時の美華書館の責任者ジョージ・F・フィッチ(費啓鴻)の援助で設立した出版社である。1900年には日本人経営の修文書館の設備と技術を吸収した。日中合資となり、多くの書物が出版された。

HG06_3_2a.jpg

『中国古音学』は張世禄の著作で、1930年(民国19年)に 商務印書館から『国学小叢書』の一冊として刊行された。本文は近代明朝体である。『旧約全書』に比べると、より洗練されて味わい豊かな近代明朝体となっている。
この書物の本文漢字書体を参考に「上巳」として試作している。

HG06_3_2b.jpg


posted by 今田欣一 at 08:40| Comment(0) | 活字書体の履歴書・第6章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年11月16日

「KOめじろ上巳M」のゆめがたり1

和字書体「めじろ」のはなし

昭和時代後期から平成にかけての和字書体を、「和字モダンスタイル」とする。欣喜堂制作の書体では「ひばり」「めじろ」があるが、新聞書体から復刻した「うぐいす」が一番イメージに近いかもしれない。

わが家にテレビがやってきたのは東京オリンピックを見るためだった。田舎でもだんだんと買い求める家庭も多くなってきていて、さすがに我が家でも東京オリンピックは見たかったのだろう。町の電器屋さんにすすめられて、富士電機製のテレビを買ったのだった。
1964年10月10日、東京オリンピック開会式。テレビの音声を、オープンリールのテープレコーダーで録音した。直接接続はできずテレビの前に置いて録音したので、話し声も録音されてしまった。小学校4年生で、声変わり前の僕の声も入っていた。
そのテープを何度も繰り返し聞いた。アナウンサーの実況をそらんじた。音だけで情景が浮かんでくるのだ。そのテープも今はもうなくなってしまった。それでも古関裕而作曲のオリンピック・マーチは、今でも覚えている。
ある日のこと、なにげなく父の蔵書を眺めていて、薄っぺらな一冊の書物を見つけた。ちょうど東京オリンピックが終わった頃に出た本だ。その本は『センサスの経済学』(児島俊弘・関英二著、財団法人農林統計協会、1964年11月25日)という。「1965年中間農業センサス副読本」とある。

HG06_3_1.jpg

そのころ父は町役場の地方公務員で、農業指導員のようなことをしていた。くわしいことはよく知らないが、おそらく農業に関する統計調査も担当していたのではないか。そのためにこの本も読んでいたのだろう。
読むというわけではなく、思い出にふけるというのでもなく、ただパラパラとページをめくってみた。そこに現れた本文の書体は、まさに昭和30年代、高度成長期をイメージさせるふくよかな和字書体ではないか。
これがどういう書体かは調べないとわからないが、直感で「これは復刻しなければ!」という衝動に駆られた。
東京オリンピックに象徴される高度成長期に出版された書物の、豊満なスタイルの和字書体に出会ったことにより、「和字モダンスタイル」というカテゴリーに中心軸ができたように感じた。同カテゴリーは「うぐいす」「ひばり」という鳥の名前から命名しているので、「めじろ」ということにした。
posted by 今田欣一 at 08:19| Comment(0) | 活字書体の履歴書・第6章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年11月12日

[本と旅と]鎌倉碑めぐりウォーク(2020年)

BT8.jpeg

松尾剛次『中世都市鎌倉を歩く』とともに


源氏の鎌倉をたずねて――2020年9月26日午前

スタートは由比ヶ浜。午前九時半、曇り空。今はもう秋なので、もちろん海水浴の人は誰もいないが、サーフィンをする人や散歩をしている人はいた。
この海から若宮大路は始まっている。鶴岡八幡宮の参道であるから、ここから歩くことにした。一の鳥居は道の真ん中にあり近づくこともできない。二の鳥居から段葛になる。ひたすら歩いた。
鶴岡八幡宮は、それなりの人出であった。舞殿では結婚式が執り行われていた。源頼朝(1147–1199)が、現在の地に遷したのだが、建物は江戸時代の造営されたものである。

kamakura_01.jpeg

本殿参拝の後、大蔵幕府跡へ向かう。大蔵御所は、源頼朝が1180(治承4)年に鶴岡八幡宮の東側にある大蔵郷に建てた館である。頼朝、頼家、実朝と続き、北条政子(1157–1225)が亡くなるまでの46年間、この地が鎌倉幕府の中心であった。現在は清泉小学校になっており、「大蔵幕府旧跡」の碑が建っているのみである。小学生による説明が提示されていた。
『中世都市鎌倉を歩く―源頼朝から上杉謙信まで』(松尾剛次著、中公新書、1997年)では「大倉御所」と記されている。

大倉御所は、当時の代表的な建築様式である寝殿造であった。寝殿造というと貴族の住宅で、武家の棟梁である頼朝の屋敷に相応しくないのではと思われがちであるが、実に、将軍御所は寝殿造であった。しかし、そもそも頼朝は、平安京で生まれ、貴族的な環境で育ち、貴族的な文化を身に付けていたのであって、彼の屋敷が寝殿造であっても不思議ではなかった。


大蔵御所(大倉御所)の西に鶴岡八幡宮、東に永福寺、南に勝長寿院があった。北には法華堂があったと推測されている。とくに永福寺跡は史跡公園として整備されているそうなので立ち寄ってみたかったところだが、ルートの関係で、次の日に訪ねることにする。

kamakura_02.jpeg


北条氏の鎌倉をたずねて――2020年9月26日午後

昼食の後、建長寺と円覚寺へ向かう。
建長寺は鎌倉幕府五代執権・北条時頼(1227–1263)が建立した。開山(創始者)は蘭渓道隆である。方丈では、金澤翔子さんの20歳の時の屏風『般若心境』が特別公開されていた。三門ではちょうど土曜法話会が行われていた。
円覚寺は、開基が八代執権・北条時宗(1251–1284)、開山は無学祖元(仏光国師)である。JR横須賀線によって総門と前庭が遮られているのは残念なことだ。大方丈には、金澤翔子さんの屏風『佛心』が展示されていた。
北鎌倉駅から鎌倉駅に戻る。小雨模様になった。源実朝暗殺によって源氏の将軍がとだえ、北条の時代になると、北条義時邸(仮御所)に始まり、宇津宮辻子幕府、若宮大路幕府と、短期間で移転している。それを辿ってみることにした。

kamakura_03.jpeg

「宇津宮辻子幕府跡」の碑は宇都宮稲荷神社の脇に建てられている。宇都宮稲荷神社は、宇都宮朝綱(1122–1204)に勧請されたといわれる。宇津宮辻子幕府の一角に宇都宮稲荷神社が祀られていたのだろう。わずか11年間、ここが政治の中心になった。
「若宮大路幕府跡」の碑は旧大佛次郎茶亭の近くにあった。旧大佛次郎茶亭は市指定の景観重要建築物で、作家の大佛次郎(1897–1973)が鎌倉文士らとの交流などに活用したところだ。1919(大正8)年ごろの建築とされる趣あるかやぶき屋根だが、現在は閉鎖されていた。

kamakura_04.jpeg

1236(嘉禎2)年8月4日、御所は宇都宮辻子の北側の若宮大路御所へ移転する。この御所は、若宮大路の東側に面していたために若宮大路御所という。この移転は、九条頼経が大病を患い、その原因が宇都宮辻子の土公(土を司る神)が祟りをなしているためと考えられたからであったようだ。これ以後、宝治合戦後の人心の刷新のためか、1247(宝治元)年7月に移転が計画されたが、結局は移転しなかったので、若宮大路側に政治の中心が固定することになった。

鎌倉歴史文化交流館に行く時間はなかった。これでこの日の予定は終了ということで、鎌倉駅近くのカフェでゆっくりと珈琲を飲みながら、足の疲れをとることにする。


足利氏・上杉氏の鎌倉をたずねて――2020年9月27日午前

この日はすっかり晴れた。まずは京急バスで大塔宮まで移動。瑞泉寺に向かう途中で、前日行けなかった永福寺跡に立ち寄る。
瑞泉寺は、鎌倉公方(足利公方)の菩提寺で、鎌倉に残る鎌倉時代唯一の庭園で知られる。中興開基が足利基氏、開山が夢窓疎石(夢窓国師)である。
浄妙寺は、極楽寺として1188(文治4)年に創建された。開基が足利吉兼、開山が退耕行勇とされる。鎌倉公方(足利公方)邸の西隣に位置する、足利氏の氏寺である。
浄妙寺の東側には「足利公方邸跡」の石碑が建てられている。

kamakura_05.jpeg

1349年7月に足利基氏が鎌倉に下向し、以後、基氏の子孫が鎌倉公方(鎌倉御所)として、東国十ヵ国統括する体勢が成立していった。
この鎌倉府は、室町幕府の組織を小規模にしたもので、鎌倉公方のもとに、関東管領がおかれ、評定衆、引付衆、政所、問注所、侍所、禅立奉行などがあった。


京急バスで、いったん鎌倉駅に戻り、JR横須賀線で北鎌倉駅へ。今度は関東管領であった上杉氏のゆかりの地を巡ることにする。鎌倉公方を補佐する関東管領の上杉氏はいくつかの家に分かれたが、そのひとつが山内上杉氏である。
北鎌倉駅から明月院までは徒歩数分である。明月院は中興開基が関東管領・上杉憲方、開山は密室守厳という。もともとは禅興寺という寺の塔頭であったといわれている。
明月院を後にして、ひたすら歩いて亀ケ谷坂切通を抜ける。JR横須賀線沿いにしばらく進むと、日蓮正宗護国寺の駐車場の脇に「扇谷上杉管領屋敷迹」の碑がある。扇谷上杉氏は、山内上杉氏とともに、両上杉氏と呼ばれた。

kamakura_06.jpeg

鎌倉公方足利氏と関東管領上杉氏による体制は、次第に公方派と管領派の対立となり、享徳の乱(1459–1482)を契機に公方は鎌倉を離れ、古河に拠点を移すことになった。

享徳の乱以後、鎌倉のある相模国を支配したのは、扇谷上杉氏とその家宰の太田氏であった。
太田氏は、丹波国太田郷(京都府亀岡市)の出身であるが、太田氏の祖資国は上杉重房に仕え、1252(建長4)年の宗尊親王の関東下向にさいして、重房とともに鎌倉に下ったという。以後、主家の上杉氏の繁栄とともに栄えた。太田氏の中でも、剃髪して道灌(1432–1486)と名乗った資長は、江戸城を築くなど江戸の発展の基礎を形成した人物として広く知られている。


太田道灌の邸宅跡は、鎌倉唯一の尼寺である英勝寺となっている。花の寺として知られており、境内は彼岸花で彩られていた。

午後から鎌倉文学館へ行く予定だったが、あいにく展示替えで休館とのこと。昼食を取った後、そのまま帰宅の途につく。鎌倉からJRで横浜まで行けば、あとは東急東横線・地下鉄副都心線・東武東上線直通のFライナーだ。便利になったものだ。
posted by 今田欣一 at 08:58| Comment(0) | 漫遊★本と旅と[メイン] | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年11月11日

[本と旅と]広島平和記念公園を訪ねて(2019年)

BT10.jpeg
頴原澄子著『原爆ドーム 物産陳列館から広島平和記念碑へ』とともに

2019年8月12日。広島平和記念公園に行ってきた。ここを訪れるのは、高校時代の1973年以来、2度目だ。45年ぶりなので、もうすっかり忘れている。
広島駅から、ひろしま観光ループバス「メイプループ」に乗り、平和公園前で降車、広島平和記念公園を元安川沿いに回り込んで、広島平和記念碑(原爆ドーム)に近づいていくことにした。


広島平和記念碑(通称:原爆ドーム)

BT10_1a.jpeg

BT10_1b.jpeg

原爆ドームの名で知られる広島平和記念碑。もともとは、広島県のさまざまな物産を展示するための「広島県物産陳列館」であった。チェコ人の建築家、ヤン・レッツェル(1880-1925)の設計で、1915(大正4)年に開館した。
『原爆ドーム 物産陳列館から広島平和記念碑へ』(頴原澄子著、吉川弘文館、2016)には次のように記されている(この本ではヤン・レツルと表記されている)

広島県物産陳列館に話を戻そう。同館は煉瓦および鉄筋コンクリート造三階建、ドーム部は五階建相当で頂部までの高さが約二五メートルもあった。元安川のたもとに建ち、当時、近辺には木造平屋が多い中で、ひときわ高く目立つ存在であった。夜間にライトアップされることもあり、広島の絵はがきにもたびたび登場する名所となった。


1921(大正10)年に「広島県立商品陳列所」、1933(昭和8)年には「広島県産業奨励館」に改称された。なお、戦時中には産業奨励館としての業務が停止され、行政機関・統制組合の事務所として使われていたようだ。
そして1945(昭和20)年8月6日、原爆が投下された。全半壊した被爆建造物の解体や修復が進められていく中で、廃墟となった広島県産業奨励館も取り壊すべきだという意見が多かったそうだ。
広島平和記念都市建設法が制定されると、広島平和記念公園構想が本格化する。そして、1955(昭和30)年には丹下健三(1913-2005)ほか3名の設計による広島平和記念公園が完成した。広島県産業奨励館廃墟も、広島平和記念碑(原爆ドーム)として留保された。

元安川越しに眺めながら、元安橋を渡って、南面から北面へと回り込む。どこからでも絵になる構図である。

廃墟となってなお存在感を示し、そこに崇高性さえ感じさせたのは、旧産業奨励館が元安川河岸という絵画に適したこともさりながら、骨格の確かさ、すなわち、ヤン・レツルのデザイン力によるところが大きかったのではないだろうか。


広島平和記念碑(通称・原爆ドーム)は、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されており、平和を訴える記念碑となっている。

広島平和公園は、広島平和記念碑(通称・原爆ドーム)を北の起点として、広島平和都市記念碑(通称・原爆死没者慰霊碑)・広島平和記念資料館(通称・原爆資料館)が南北方向に一直線上に位置するよう設計されている。
これを設計した丹下健三ほか3名の案について、『原爆ドーム 物産陳列館から広島平和記念碑へ』では次のように解説する。

丹下が他の応募者が見落としていた旧産業奨励館の残骸とそれが建つ敷地の重要性を認識することができたのは、彼が高校時代を広島で過ごし、戦災復興院の嘱託として復興計画案を策定の折、浜井市長や竹重広島県土木部都市計画課長がそれを残したい意思を持っていることを、おぼろげにでも知りえたことが大きかったかもしれない。



広島平和都市記念碑(通称:原爆死没者慰霊碑)

BT10_2a.jpeg

BT10_2b.jpeg

再び元安橋を渡り、「平和の灯」から「平和の池」のそばを通って、広島平和都市記念碑(通称・原爆死没者慰霊碑)まで南下する。広島平和都市記念碑には参拝する人で列ができていた。私もその最後尾に並び、アーチの間に原爆ドームがすっぽり収まる構図をこの目で見ることができた。
碑には「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」という碑文がきざまれており、中央の石室には、国内外を問わず、死亡した原爆被爆者全員の氏名を記帳した原爆死没者名簿が納められている。

当初は彫刻家イサム・ノグチ(1904-1988)の案に内定していた。ノグチのデザインは、原爆ドームを臨む巨大なアーチ型の碑で、地上部分だけでなく大きな地下空間を擁するものであったという。
しかしながら、建築の権威、岸田日出刀(1899-1966)が日系アメリカ人というノグチの出自を理由に難色を示し、結局、丹下健三が日本古代の住宅を表す埴輪土器からヒントを得て設計したものになった。
『原爆ドーム 物産陳列館から広島平和記念碑へ』では、イサム・ノグチ案の慰霊碑にも触れている。

一九五〇年代、イサム・ノグチの慰霊碑が実現しなかったのは、戦後まもない時期で、岸田が示したように、国民感情がそれを許容しかねたのかもしれない。また、藤森照信は建築史家としてイサム・ノグチ案で実現しなくて良かったとも述べる。五メーチルにも及ぶ巨大な黒御影の塊が原爆ドームを陰にしてしまう懸念からである。
そのような、国民感情やデザインの視点、国家、政治的な側面も含めて、戦後七〇年が経過した今、イサム・ノグチの慰霊碑の再現が可能か否か、適切か否かを問い直してみる必要があるだろう。



広島平和記念資料館(通称:原爆資料館)

BT10_3a.jpeg

BT10_3b.jpeg

夏休みということもあって、広島平和記念資料館(通称・原爆資料館)の東館は長蛇の列ができていた。西側の「本館」と、東側の「東館」からなり、観覧は東館から入場し、本館へと巡るコースとなっている。炎天下で暑い中、少しずつ前に進んでいく。
広島平和記念資料館は、1998年には広島国際会議場と合わせて、建設省(現在の国土交通省)の公共建築百選に選出、さらに1999年には広島平和記念資料館および平和記念公園が広島ピースセンターとして、DOCOMOMO Japanの日本の近代建築20選に選出された。2006年には、広島平和記念資料館西館(現在の本館)が、第二次世界大戦後の建築物としては初めて国の重要文化財に指定されている。

広島平和記念資料館が原爆資料館と呼ばれている経緯について、『原爆ドーム 物産陳列館から広島平和記念碑へ』でも触れられている。

広島では、被爆直後から、原爆の影響を受けたと思われる遺物を丹念に拾い集め、採取地等を記録し、標本、資料づくりをしていた人物として、長岡省吾がいた。彼は、被爆当時は広島文理科大学の地質鉱物学教室の嘱託をしていたが、その並々ならぬ蒐集物の存在を知った市が、その資料の提供を願い出るとともに、広島市の嘱託として調査研究を続けるよう依頼し、一九四八年、基町の中央公民館のそばに「原爆資料館」が建設された。これが「原爆」という言葉を使った数少ない施設の一つである。そして、この「原爆資料館」は一九四九年九月、「原爆参考資料陳列室」となった。


所蔵資料の増加に伴い、これらの保管・展示を目的とする新しい展示施設を求める声が高まっていった。新しい展示施設は、広島平和記念公園の全体設計を担当した丹下健三により、公園の中心的な施設として位置づけられることとなった。
丹下健三の設計による「広島平和会館原爆記念陳列館」は1955年に開館した。「原爆参考資料陳列室」の被爆資料は、広島平和会館原爆記念陳列館に移された。初代館長には長岡省吾(1901-1973)が就任した。
当初は、広島平和会館原爆記念陳列館のみだったが、設計者の丹下健三によるコンペティション案では、西側に広島市公会堂(現在の広島国際会議場)を、東側には広島平和会館本館を配して、三棟一体の建築とするよう計画されていた。
1994年に広島平和会館本館を改築した際、広島平和会館原爆記念陳列館と併せて「平和記念資料館」と呼ぶようになり、当初からの建物を西館(現在の本館)、広島平和会館の跡地に新たに建設されたものを東館と称した。この改築に際して、2館は空中回廊で連結された。

平和記念資料館見学ののち、本館の通路から、窓越しではあったが一直線に並ぶ原爆死没者慰霊碑、原爆ドームを見ることができた。

BT10_3c.jpeg



posted by 今田欣一 at 14:10| Comment(0) | 漫遊★本と旅と[メイン] | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする