2020年11月11日

[本と旅と] テーマパークで夢紀行--ロックハート城

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スタン・ナイト『西洋活字の歴史』とともに


2019年7月21日、参議院議員選挙の投票を済ませて、高崎から上越線で沼田へ。沼田駅からロックハート城前までは路線バスで20分ぐらいなのだが、なんせ2時間に1本ぐらいしか便数がない。あらかじめ沼田駅前の喫茶店でゆったりと昼食をとる計画をたてた。
スコットランドから移築・復元されたというロックハート城にやってきた。見た目は確かに古城である。だがロックハート家は地元の名家ではあるようだが、国王のような権力者ではない。しかも建築されたのは産業革命以後の近代になってからである。城郭でもなく、宮殿でもなく、城郭風の大邸宅なのだろう。
それでも一度は来てみたいと思ったのは、単純にヨーロッパの雰囲気を感じられるのではないかと思ったからである。少しだけ本物に近い、こだわりを持った小規模なテーマパークなのだ。


ウィリアムズ・ガーデン

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入場すると、すぐにウィリアムズ・ガーデンの入り口が目に入ってきた。ウィリアムズ・ガーデンは、開設25周年を記念して2018年4月にオープンしたヨーロッパ迷宮庭園である。

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もともとのロックハート城の敷地内には馬が放牧され、ゴルフのグランドまであったようだ。そこには美しく整えられた庭園があり、フランス様式を取り入れた迷路も設けられていた。ウィリアムズ・ガーデンは、それを再現しようとしたのだろう。
ウィリアムズ・ガーデンは、ロックハート城を建設したウィリアム・ロックハートの名前をとったのだなと思ったが、公式のウェブサイトによれば、ロックハート城の庭園を設計した建築家がウィリアム・バーン氏であり、さらにはロックハート家の始祖もウィリアムだったという事実も合わせての命名だそうだ。そう、ウィリアムばかりなのだ。

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ウィリアムと聞いて、私はウィリアム・キャズロン1世を思い出した。『西洋活字の歴史 グーテンベルクからウィリアム・モリスへ』(スタン・ナイト著、高宮利行監修、安形麻理訳、慶應義塾大学出版会、2014年)では「バロック活字」に分類されているが、一般的には「オールド・ローマン体」と言われている。

1730年までにキャズロンは「大部分の競争相手を凌駕していた」(ウィリアム・ゲット『回顧録』)。彼の活字の質が非常に高かったので、これ以降イギリスはオランダからの輸入活字に一切頼らなくなった。有名な1734年のキャズロンの活字見本帳にはあらゆる種類の活字(ローマン体とイタリック体それぞれ14サイズ、2種のゴシック体、3種のヘブライ語、4種のギリシャ語、6種のラテン文字以外の活字)が載っている。
一世紀後の1839年にチャールズ・ウィッティンガムは叔父からチジック・プレスの経営を受け継いだ。彼は古いキャズロン活字のケース数個を見つけ、おそらく出版者ウィリアム・ピッカリングの提案を受け入れ、同年に印刷した5点の標題紙にその活字を使った。ウィッティンガムは新しく鋳造したキャズロン活字を1844年と1845年の特別な本に使うことを決めた。


ガーデン・エントランスの1829年と年号のある石造物は、ロックハート家の紋章である。庭園内は、多くの家族連れやカップルが散策していた。ロックハート城の城壁を背景に写真を撮っている人もいる。

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園路に従い、緑のトンネル、花の小径、緑の迷路をめぐる。オークの森、湿地の池から緑のラビリンス(迷宮)へと写真を撮りながら散策。ガゼボもある。中央にあるのが緑のラビリンス。そしてアヒルが泳いでいる水辺の庭の周囲には、天然石灰岩(コッツウォルズ・ストーン)が積み上げられている。


セントローレンス・チャーチ

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ハートバザール(土産物屋)を通り抜けると、高さ20メートルのスプリングベルがある。さらに恋人の泉から階段を上ったところに、セントローレンス教会がある。

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公式ウェブサイトによれば、ウィリアム・ロックハートの弟であるローレンス・ロックハートにちなんで命名したそうだ。ローレンス・ロックハートは、神学博士であり牧師でもあった。
ロックハート城が移築されるための解体作業中に、現地で教会の石造物が発見されたという。セントローレンス教会は、当時の城主専用礼拝堂を忠実に再現したそうだ。

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礼拝堂の中までは足を踏み入れることはできなかったが、入り口のところからのぞき見ることはできた。教会内部には18世紀のアンティーク・ステンドグラスが嵌めこまれている。

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18世紀の活字では、ジョン・バスカヴィルの名前が挙げられる。『西洋活字の歴史』では「ネオクラシカル活字」に分類されている。一般的には「トランジショナル・ローマン体」と呼ばれている。

ジョン・バスカヴィルが印刷の実験を始めたのは44歳になってからのことだが、彼の印刷と活字デザインの質の高さは驚異的であり、特にフランスとイタリアのタイポグラフィに与えた影響は計り知れない。彼は独学のアマチュア印刷業者であったが、完璧さの追求においては時間も費用も惜しまなかった。
バスカヴィルの活字書体は独特である。彼は「私の活字は他を真似たもの(の一つ)ではなく、私自身のアイデアによって形作られた」と主張した。バスカヴィルの活字は、かつて「トランジショナル」として知られていた様式の本質をはっきり示している。


この教会で結婚式を挙げる人も多い。ウエディング・サロンも併設されている。披露宴には、ゴージャスな「スクーン」、カジュアルな「タリスマン」という二つのバンケットルームがある。今回は行かなかったが、世界のウエディングドレスを集めた「ウエディング・ドレス・ギャラリー」もあるようだ。


ロックハート・キャッスル

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セントローレンス教会の前からロックハート城を見上げる。前庭ではロックハート城をバックに、写真撮影しているグループを見かける。ドレス姿の女性が多いが、タキシード姿の男性もいる。子供たち、ペットも着飾っている。ロックハート城3階に、そういう体験コースの受付があるのだ。

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1829年に建築されたというロックハート城に入る。1階左手の「ロックハート・ヒストリー」の部屋を見学。1762年にハプスブルグ家より授けられた勅許状などが雑然と展示されている。

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大理石の階段を上って、「世界の城ライブラリー」の部屋へ。ロックハート家ゆかりの文豪サー・ウォルター・スコットの初版本や、城に関する書物が1000冊ぐらい収められているという。

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19世紀のスコットランドと聞いて、まず思いうかべるのは「スコッチ・ローマン」であろう。『西洋活字の歴史』では、リチャード・オースティンの名前を挙げている。「19世紀の活字」に分類されているが「モダン・ローマン体」とされることもある。

19世紀の印刷業界では、ディドやボドニの急進的な活字デザインの結果、彼らの「モダン」様式が規範となっていた。しかし、オースティンがスコットランドの二つの鋳造所のために彫った新しい活字は、意図的に、それほど厳格ではなくもっと実用的に作られていた。
オースティンの活字は、エディンバラのウィルソン家&シンクレア社から、サミュエル・ディキンソン鋳造所経由でアメリカに輸入された。ディキンソンは1847年の見本帳にその活字を載せ、「スコットランド活字」の品質、耐久性、低廉さを賞賛している。こうしてオースティンの活字から派生した活字は、スコッチ・ローマンとして知られるようになった。


最後に、大理石村のもともとの施設であるストーン・アカデミーとストーン・ギャラリーを見学。ストーン・ショップで、路線バスの時間が来るのを待つことにした。

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2020年11月10日

[本と旅と]雨の松阪・国学の道(2016年)

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田中康二著『本居宣長』とともに


2016年2月20日朝、快速みえ1号で松阪へ。

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28年前に訪れたことがあるが、それ以来だ。松阪駅前の観光情報センターで「本居宣長コース・国学の道」というブックレットをもらったので、このルートに従って歩くことにした。冷たい雨が降っている。

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新上屋跡〜本居宣長旧宅跡
松阪駅前から新町通を進んで、日野町交差点にあるカリヨンビルが新上屋(しんじょうや)という旅宿があった場所である。本居宣長が賀茂真淵の宿泊する新上屋を訪ねて対面したことが「松坂の一夜」として知られている。現在は「新上屋跡」の石碑が建てられている。
田中康二著『本居宣長 文学と思想の巨人』(中公文庫、2014)には、次のように記されている。まさに歴史的な場面なのである。

はたして真淵一行は、伊勢神宮からの帰りに再び松坂に立ち寄った。柏屋から真淵来訪の情報を得た宣長は、その夜喜び勇んで真淵の逗留先(新上屋)を訪ねた。馬渕にとって、奈良・京都での調査収集の成果もさることながら、その旅の締めくくりによぎった松坂の地で、有望な国学徒に出会うとは思ってもみなかったことであろう。(中略)真淵の学識に宣長の才学と若さがあれば、向かうところ敵なしである。67歳の老学者は34歳の前途有望な学者に希望の光を見出した。


伊勢街道を雨の中をとぼとぼと歩く。大手通に入り、少し進んでから右折すると左手に長谷川治郎兵衛家と、まどゐのやかた見庵があり、その向かいに本居宣長旧宅跡がある。
本居宣長旧宅跡は、特別史跡になっているが、建物は松阪城跡に移築されたので、今は礎石だけが復元されている。離れ(長男の春庭が住んでいた)と、土蔵、庭の松は残されているが、12歳から72歳まで暮らした場所にしてはちょっと寂しい。

本居宣長記念館・鈴屋(本居宣長旧宅)
松阪市役所の前を通り、松坂城跡に到着。

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まっすぐに本居宣長記念館に向かう。ちなみに松阪は1889(明治22)年の町制施行に際して地名を「松坂」から「松阪」に改めたため現在は「松阪」と書くが、史跡名称では「松坂」を使用しているとのことである。

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本居宣長記念館で開催中の冬の企画展「本居宣長、本を出す」展を見る。これを目当てに松阪までやってきたのだ。宣長の全著作が展示されているという。11時から12時までの「館長による展示説明会」に合流して、じっくりと見ることができた。

宣長の版本感について、『本居宣長 文学と思想の巨人』には、次のように記されている。

宣長は門弟の要望を聞き入れて自著を上梓することが多かった。多忙で講義に出席できない弟子を慮(おもんぱか)ってのことだったが、それは遠隔地の弟子を指導する上の便宜でもあった。そのために宣長は膨大な数の著作を出版したのである。むろん、手放しで版本を礼賛していたわけではない。版本と写本の役割の違いを正確に認識していたのである。


私は、本居宣長の著作『字音假字用格』(1776)と『玉あられ』(1792)の刊本を所持しており、それを原資料として「もとおり」と「すずのや」という活字体を制作している。また高弟で板木師の植松有信の筆耕による『古事記伝二十二之巻』(1803)も「うえまつ」という名称で制作している。

このように宣長は版本の短所を十分に認識しながらも、やはり稀少な写本と比べると、やはり版本は必要であると考えたのである。その結果、自著の刊行に際して、細心の注意を払って上梓することを自らに課した。稿本(下書き)は初稿、再稿を経て清書してから板下を作った。刷り上がった校正(ゲラ)も校合刷(きょうごうずり)で確認し、二番校合を取って再確認することもあった。そのようにして、ようやく版本が出来(しゅったい)したのである。このような作業も含めて出版である。それゆえ、出来上がった版本を手に取った時の宣長の喜びは想像に余りある。単に自著を一度に大量生産するといった姑息(こそく)な考えではなかったのである。


「本は出版することに意味がある」「本がつなぐ真淵と宣長」「職人の技」「はじめての出版」「校正だって手は抜かない」「鈴屋ネットワーク〜本がめぐるドラマ」など興味深いテーマで、写本、版本、板木が並ぶ。『源氏物語玉の小櫛』は版本と板木が展示されているが、その板木には埋め木で訂正された跡が残っている。

さらに私は、自称門人という平田篤胤の著作『神字日文伝』(1824)から「ひふみ」を、没後の門人、伴信友『仮字本末』(1850)から「さきがけ」という活字体を制作している。

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本居宣長記念館の隣に移築された鈴屋(本居宣長旧宅)にも立ち寄った。2階の書斎は外から覗くようになっているのだが、強い雨が降っていたので、はっきりとは見えなかったのは残念だった。


本居宣長ノ宮〜樹敬寺
雨は降り続いていた。四五百(よいほ)の森の「本居宣長ノ宮」に参詣する。「山室山神社」として本居宣長の奥墓の隣に作られたが、移築されて「本居神社」となり、さらに改称して現在は「本居宣長ノ宮」となっている。この神社の宮司は、宣長の高弟で板木師であった植松有信の子孫だそうだ。
本居宣長歌碑のある松阪神社、御城番屋敷に立ち寄り、同心町と呼ばれる区域を通り、旧三重県立工業高校製図室(赤壁校舎)の外観を見ながら、新町通に戻ってきた。本居家の菩提寺、樹敬寺(じゅきょうじ)に立ち寄る。一族の墓の中に、宣長夫妻と春庭夫妻の墓が背中合わせに立っている。ともに国史跡に指定されている。
宣長は『遺言書』を執筆している。『本居宣長 文学と思想の巨人』にも詳細が記されている。

問題は墓を二つ作るように指示していることである。山室山妙楽寺(みょうらくじ)の墓と樹敬寺の墓である。妙楽寺の墓には遺骸を納め、樹敬寺の墓は空にするように記している。それゆえ、葬送の折には夜のうちに棺(ひつぎ)を妙楽寺に運んでおき、樹敬寺へは「空送(カラダビ)」にすることを遺言している。さすがにこの願いは、当時の常識に反するために聞き入れられなかったようであるが、何とも奇妙な葬式である。妙楽寺には年に一度の命日だけの墓参、樹敬寺には祥月命日の墓参を要請している。



※足をのばして

小津安二郎青春館
昼食後、雨のなかを小津安二郎青春館に向かう。

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映画監督小津安二郎の少年時代から学生時代までにスポットを当てている。ひとりで、松阪小津組が制作した「名監督 青春のまち」というビデオを見た後、日記、教科書類、ノート、習字、図画、写真など学生時代の遺品の数々を、館員の説明つきで見るという贅沢な一時間だった。
posted by 今田欣一 at 08:28| Comment(0) | 漫遊★本と旅と[メイン] | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年11月09日

[本と旅と]北京〜三大博物館を巡る(2016年)

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米山寅太郎『図説中国印刷史』とともに

中国の古典籍は、わが国では「漢籍」と呼ばれている。「漢籍」とは中国人の著作で、中国語(漢文)で書かれ、中国で出版された書物のことである。わが国にも多く輸入され、静嘉堂文庫や多くの図書館で所蔵されている。
それでもなお「漢籍」のゆかりの地を訪れてみたいと思っていた。3度目の北京訪問で、それが叶うことになった。


中国国家典籍博物館

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2016年1月9日(土曜日)。劉慶さん、應永會さんとともに、汪文さんの案内で、中国国家図書館の敷地のなかにある中国国家典籍博物館へ。2014年9月10日に開館したそうなので、建物もまだ新しい。

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常設展では、中国国家図書館の所蔵する典籍の一部が、文学的な歴史、製本の歴史などのテーマ別に展示されていた。
『図説中国印刷史』(米山寅太郎著、汲古書院、2005年)では取り上げられている古典籍の多くは中国国家図書館で所蔵されているものだ。『図説中国印刷史』で次のように書かれている陳宅書籍舗の出版物も所蔵されている。

南宋時代には、民間書肆による出版も盛んに行われた。首都の臨安では陳起(字名は宗之)父子の書舗が名を知られた。陳氏の店は、臨安府棚北大街、睦親坊の南と、洪橋子南河西岸とにあり、「陳宅書籍舗」「陳宅経籍舗」と称し、その出版物で現存するものには『羣賢小集』『王建詩集』『朱慶餘詩集』『李丞相詩集』『唐女郎魚玄機詩集』などがあり、猫字橋河東岸の開牋紙馬舗鐘家には『文選』がある。また同じ臨安府の太廟前には尹家書籍舗(『歴代名医蒙求』『捜神秘覧』『続幽怪録』)があり、中瓦南街東に栄六郎の開印輸経史書籍舗(『抱朴子』)があった。この栄六郎の書籍舗は、北宋時代、旧都汴京(開封市)の大相国寺東に開店したものが、南渡に従って臨安に移ったものである。


漢字書体「陳起」の原資料である『南宋羣賢小集』はなかったものの、「漢字書体二十四史」として制作している活字書体の原資料の書籍をナマで見ることができたので、ついついガン見してしまい、ガラスケースに頭をぶつけてしまったぐらいだ。
このときの企画展は「宋元善拓展」と「甲骨文記憶展」をやっていた。「宋元善拓展」では、宋・元代の拓本と現代の書家の臨書を並べて展示されていた。「甲骨文記憶展」も展示にいろいろ工夫していて楽しかった。

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孔廟・国子監博物館

2016年1月10日(日曜日)、午前中に孔廟・国子監博物館を見学することになった。

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孔廟(孔子廟)は、1302(大徳10)年に建てられた。山東省の曲阜の孔廟に次ぐ規模を持っている。主殿の大成殿には孔子や弟子の位牌が祭られ、殿内には72人の孔子の弟子の塑像や祭祀用の古楽器などが展示されていた。

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孔廟から国子監に入る。「左廟右学」の伝統思想に則り、1306(大徳10)年に設立された。明代初期には「北平郡学」と呼ばれていたが、永楽2年(1404年)に再び国子監と改められた。元・明・清時代の最高学府である。
漢字書体「金陵」の原資料は南京国子監で出版された『南齊書』だが、北京国子監の『南齊書』も存在する。北京国子監でも出版は行われていたのだ。
『図説中国印刷史』では、南京国子監とともに、北京国子監についても書かれている。

この南監に対し、太祖の嫡孫で第二代の恵帝(在位一三九九—一四〇二)を廃して帝位についた太祖の第四子、成祖朱棣、永楽帝(在位一四〇三—二四)は北方に対する戦略的必要から都を北京に遷し、北京にも国子監を置いた。これを北監と略称する。『明史』「成祖紀」には、永楽元年(一四〇三)正月、北平を以て北京と為し、二月庚戌、北京留守行後軍都督府、行部、国子監を設けたことを記し、北京を京師と為す旨を記している。而してこの北監においても、周弘祖の『古今書刻』によれば、四十一種の書が出版されたといわれる。そのうち、万暦十四年(一五八六)から二十一年(一五九三)にかけて『十三経註疏』、二十三年(一五九六)から三十四年(一六〇六)にかけて上梓された『二十一史』などが知られている。


ちなみに南京国子監の跡地は、現在、東南大学・四牌楼キャンパスになっている。東南大学は中国の国立大学である。
孔廟・国子監博物館にある乾隆石経も目当ての一つだった。儒教の十三経を石に彫った、いわば石の書物である。この拓本(複写)を、足利学校事務所のビデオルームで見て以来、ぜひ現物を見たいと思っていたのだ。「乾隆石経」の扁額は、ノーベル文学賞の莫言氏の書だそうだ。

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乾隆石経は、清の乾隆帝が作らせたものだ。江蘇省出身の貢生(科挙に合格し、国子監に入学した者)で、著名な書家であった蔣衡が、791年(乾隆56年)から3年かけて楷書で書きあげた。189石が完全に保存されている。

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ひときわ大きな石碑は、乾隆帝の御製文である。おもて面は漢字(行書)、うら面は満洲文字で刻まれている。熹平石経が隷書体、開成石経が楷書体であったので、乾隆石経の御製文の行書体には注目していた。

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故宮博物院


2016年1月10日の午後は、故宮博物院へ。

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故宮博物院は明・清両王朝の宮殿建築と宮廷収蔵を基礎として設立した総合的な国立博物館である。現在、南の午門が参観者の入り口であり、北の神武門が出口となっている。
南北に通る中軸線に沿って、太和殿、中和殿、保和殿を中心とし、左右に文華殿、武英殿が配置されている。太和殿、中和殿、保和殿は以前見学したので、今回は左右の文華殿、武英殿を見たいと思っていた。

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武英殿は、明代の1420年に北京の紫禁城内の南西隅に建てられた建物である。清代には刻書処が設置され、殿版と称される書籍が刊行されたのである。清代の出版の状況について、『図説中国印刷史』では次のように記されている。

明末の騒乱以後、衰退した印刷出版の事業も、清朝の安定とその文化政策の推進とによって、漸次活況を呈し、活字による印行も前代を凌駕して隆盛となった。
その第一に挙ぐべきは、すでに「清の類書・叢書」の項で述べた『欽定古今図書集成』である。この書は康熙帝の発企に始まり、雍正帝がその後を嗣いで雍正三年(一七二五)末に完成した。凡そ一万巻、五〇二〇冊に及ぶ浩瀚なもので、銅活字を使用、銅活字本としては空前絶後の大事業であった。


漢字書体「武英」の原資料は『欽定古今図書集成』である。用いられた銅活字は武英殿で貯蔵されていたようだ。

『古今図書集成』の印刷に用いられた銅活字は、その後、武英殿に貯蔵され、莫大な数量であったが、盗難によって漸次減少を来たすとともに、乾隆初年には銅の騰貴による銅銭の不足から、同九年(一七四四)に銅銭に改鋳された。


1773(乾隆38)年に、『四庫全書』のなかの希少価値のあるものを武英殿で刊行することになり、莫大な経費を軽減するために木活字を用いて印刷する方法が採用された。武英殿で刊行された木活字版の書籍を総称して『武英殿聚珍版叢書』と呼ぶ。この木活字版に乾隆帝が与えた雅称が聚珍版である。
武英殿は、2005年から故宮博物院の書画館として一般開放されるようになっていた。しかしながら、この日は展示替え期間中で見ることができなかった。残念だが仕方ない。午門・雁翅楼や、文華殿・文淵閣などをじっくりと見学した。

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2015年に新たに開放されたのが、故宮の西側、寿康宮、慈寧花園、慈寧宮のある「慈寧宮エリア」だ。ここは皇帝と后妃たちが居住し、日常の政務を取り扱う場所である。慈寧園に設けられた「彫塑館」などを見学した。

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2020年11月05日

「KOさがの臨泉M」のゆめがたり4

日本語書体「さがの臨泉M」の構想

「さがのM」は、2002年に「和字書体三十六景第1集」のなかの1書体として発売されている。これに、漢字書体「臨泉M」、欧字書体「K.E. Scorpio-Medium」を加えて、「KOさがの臨泉M」とすることを構想している。

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「和字カーシヴ、和様体、イタリック体」の組み合わせを基本としている。「KOさがの臨泉M」のほか、「KOすずり臨泉M」、「KOいけはら臨泉M」も考えているが、「臨泉M」、「K.E.Scorpio-Medium」が完成していないので、今のところ構想だけにとどまっている。
このほかに、「えど」、「いしぶみ」、「たかさご「さよひめ」との組み合わせも可能ではないかと思っている。
KOさがの臨泉M
KOすずり臨泉M
KOいけはら臨泉M
KOえど臨泉M
KOいしぶみ臨泉M
KOたかさご臨泉M


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2020年11月04日

「KOさがの臨泉M」のゆめがたり3

欧字書体「K.E.Scorpio」のはなし(未制作)

銅版印刷とは、銅製の一枚板を使った凹版印刷の一種である。活字版が陽刻・凸状の版になるのにたいし、凹版は陰刻・凹状の版になる。その素材として銅が多く使われたために、凹版印刷のことを一般的には銅版印刷と呼んでいる。
金属板にじかに彫刻する方法(エングレーヴィング)での銅版印刷は1420年から1430年ごろにかけてドイツとイタリアではじめておこなわれた。17世紀以降には腐食銅製技法(エッチング)が主流になったが、フランス宮廷ではエングレーヴィングを銅版印刷の唯一の製作技法と認めていた。
チャンセリー・バスタルダを源流にして、エングレーヴィング技法のなかで育まれてきた銅版文字を、鋭くカットされたペンによって模倣したのがラウンド・ハンドである。
マシュー・カーターは、1966年にチャールズ・スネルのラウンド・ハンドを復刻した「スネル・ラウンドハンド(Snell Roundhand)」を、1972年にはジョージ・シェリー(1666–1736)のラウンド・ハンドを復刻した「シェリー(Shelly)」を発表している。
ラウンド・ハンドは、そののち個性的で装飾的な面をそぎ落とされた「スクリプト体」と発展していった。
欧字書体「K.E.Scorpio-Medium」は、『活字書体見本帳』(フライ・アンド・スティール活字鋳造所、1795年)のスクリプト体を参考にしながら、日本語組版に調和するように制作した書体である。
posted by 今田欣一 at 08:49| Comment(0) | 活字書体の履歴書・第6章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする