田中康二著『本居宣長』とともに
2016年2月20日朝、快速みえ1号で松阪へ。
28年前に訪れたことがあるが、それ以来だ。松阪駅前の観光情報センターで「本居宣長コース・国学の道」というブックレットをもらったので、このルートに従って歩くことにした。冷たい雨が降っている。
新上屋跡〜本居宣長旧宅跡
松阪駅前から新町通を進んで、日野町交差点にあるカリヨンビルが新上屋(しんじょうや)という旅宿があった場所である。本居宣長が賀茂真淵の宿泊する新上屋を訪ねて対面したことが「松坂の一夜」として知られている。現在は「新上屋跡」の石碑が建てられている。
田中康二著『本居宣長 文学と思想の巨人』(中公文庫、2014)には、次のように記されている。まさに歴史的な場面なのである。
はたして真淵一行は、伊勢神宮からの帰りに再び松坂に立ち寄った。柏屋から真淵来訪の情報を得た宣長は、その夜喜び勇んで真淵の逗留先(新上屋)を訪ねた。馬渕にとって、奈良・京都での調査収集の成果もさることながら、その旅の締めくくりによぎった松坂の地で、有望な国学徒に出会うとは思ってもみなかったことであろう。(中略)真淵の学識に宣長の才学と若さがあれば、向かうところ敵なしである。67歳の老学者は34歳の前途有望な学者に希望の光を見出した。
伊勢街道を雨の中をとぼとぼと歩く。大手通に入り、少し進んでから右折すると左手に長谷川治郎兵衛家と、まどゐのやかた見庵があり、その向かいに本居宣長旧宅跡がある。
本居宣長旧宅跡は、特別史跡になっているが、建物は松阪城跡に移築されたので、今は礎石だけが復元されている。離れ(長男の春庭が住んでいた)と、土蔵、庭の松は残されているが、12歳から72歳まで暮らした場所にしてはちょっと寂しい。
本居宣長記念館・鈴屋(本居宣長旧宅)
松阪市役所の前を通り、松坂城跡に到着。
まっすぐに本居宣長記念館に向かう。ちなみに松阪は1889(明治22)年の町制施行に際して地名を「松坂」から「松阪」に改めたため現在は「松阪」と書くが、史跡名称では「松坂」を使用しているとのことである。
本居宣長記念館で開催中の冬の企画展「本居宣長、本を出す」展を見る。これを目当てに松阪までやってきたのだ。宣長の全著作が展示されているという。11時から12時までの「館長による展示説明会」に合流して、じっくりと見ることができた。
宣長の版本感について、『本居宣長 文学と思想の巨人』には、次のように記されている。
宣長は門弟の要望を聞き入れて自著を上梓することが多かった。多忙で講義に出席できない弟子を慮(おもんぱか)ってのことだったが、それは遠隔地の弟子を指導する上の便宜でもあった。そのために宣長は膨大な数の著作を出版したのである。むろん、手放しで版本を礼賛していたわけではない。版本と写本の役割の違いを正確に認識していたのである。
私は、本居宣長の著作『字音假字用格』(1776)と『玉あられ』(1792)の刊本を所持しており、それを原資料として「もとおり」と「すずのや」という活字体を制作している。また高弟で板木師の植松有信の筆耕による『古事記伝二十二之巻』(1803)も「うえまつ」という名称で制作している。
このように宣長は版本の短所を十分に認識しながらも、やはり稀少な写本と比べると、やはり版本は必要であると考えたのである。その結果、自著の刊行に際して、細心の注意を払って上梓することを自らに課した。稿本(下書き)は初稿、再稿を経て清書してから板下を作った。刷り上がった校正(ゲラ)も校合刷(きょうごうずり)で確認し、二番校合を取って再確認することもあった。そのようにして、ようやく版本が出来(しゅったい)したのである。このような作業も含めて出版である。それゆえ、出来上がった版本を手に取った時の宣長の喜びは想像に余りある。単に自著を一度に大量生産するといった姑息(こそく)な考えではなかったのである。
「本は出版することに意味がある」「本がつなぐ真淵と宣長」「職人の技」「はじめての出版」「校正だって手は抜かない」「鈴屋ネットワーク〜本がめぐるドラマ」など興味深いテーマで、写本、版本、板木が並ぶ。『源氏物語玉の小櫛』は版本と板木が展示されているが、その板木には埋め木で訂正された跡が残っている。
さらに私は、自称門人という平田篤胤の著作『神字日文伝』(1824)から「ひふみ」を、没後の門人、伴信友『仮字本末』(1850)から「さきがけ」という活字体を制作している。
本居宣長記念館の隣に移築された鈴屋(本居宣長旧宅)にも立ち寄った。2階の書斎は外から覗くようになっているのだが、強い雨が降っていたので、はっきりとは見えなかったのは残念だった。
本居宣長ノ宮〜樹敬寺
雨は降り続いていた。四五百(よいほ)の森の「本居宣長ノ宮」に参詣する。「山室山神社」として本居宣長の奥墓の隣に作られたが、移築されて「本居神社」となり、さらに改称して現在は「本居宣長ノ宮」となっている。この神社の宮司は、宣長の高弟で板木師であった植松有信の子孫だそうだ。
本居宣長歌碑のある松阪神社、御城番屋敷に立ち寄り、同心町と呼ばれる区域を通り、旧三重県立工業高校製図室(赤壁校舎)の外観を見ながら、新町通に戻ってきた。本居家の菩提寺、樹敬寺(じゅきょうじ)に立ち寄る。一族の墓の中に、宣長夫妻と春庭夫妻の墓が背中合わせに立っている。ともに国史跡に指定されている。
宣長は『遺言書』を執筆している。『本居宣長 文学と思想の巨人』にも詳細が記されている。
問題は墓を二つ作るように指示していることである。山室山妙楽寺(みょうらくじ)の墓と樹敬寺の墓である。妙楽寺の墓には遺骸を納め、樹敬寺の墓は空にするように記している。それゆえ、葬送の折には夜のうちに棺(ひつぎ)を妙楽寺に運んでおき、樹敬寺へは「空送(カラダビ)」にすることを遺言している。さすがにこの願いは、当時の常識に反するために聞き入れられなかったようであるが、何とも奇妙な葬式である。妙楽寺には年に一度の命日だけの墓参、樹敬寺には祥月命日の墓参を要請している。
※足をのばして
小津安二郎青春館
昼食後、雨のなかを小津安二郎青春館に向かう。
映画監督小津安二郎の少年時代から学生時代までにスポットを当てている。ひとりで、松阪小津組が制作した「名監督 青春のまち」というビデオを見た後、日記、教科書類、ノート、習字、図画、写真など学生時代の遺品の数々を、館員の説明つきで見るという贅沢な一時間だった。