2020年11月11日

[本と旅と]広島平和記念公園を訪ねて(2019年)

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頴原澄子著『原爆ドーム 物産陳列館から広島平和記念碑へ』とともに

2019年8月12日。広島平和記念公園に行ってきた。ここを訪れるのは、高校時代の1973年以来、2度目だ。45年ぶりなので、もうすっかり忘れている。
広島駅から、ひろしま観光ループバス「メイプループ」に乗り、平和公園前で降車、広島平和記念公園を元安川沿いに回り込んで、広島平和記念碑(原爆ドーム)に近づいていくことにした。


広島平和記念碑(通称:原爆ドーム)

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原爆ドームの名で知られる広島平和記念碑。もともとは、広島県のさまざまな物産を展示するための「広島県物産陳列館」であった。チェコ人の建築家、ヤン・レッツェル(1880-1925)の設計で、1915(大正4)年に開館した。
『原爆ドーム 物産陳列館から広島平和記念碑へ』(頴原澄子著、吉川弘文館、2016)には次のように記されている(この本ではヤン・レツルと表記されている)

広島県物産陳列館に話を戻そう。同館は煉瓦および鉄筋コンクリート造三階建、ドーム部は五階建相当で頂部までの高さが約二五メートルもあった。元安川のたもとに建ち、当時、近辺には木造平屋が多い中で、ひときわ高く目立つ存在であった。夜間にライトアップされることもあり、広島の絵はがきにもたびたび登場する名所となった。


1921(大正10)年に「広島県立商品陳列所」、1933(昭和8)年には「広島県産業奨励館」に改称された。なお、戦時中には産業奨励館としての業務が停止され、行政機関・統制組合の事務所として使われていたようだ。
そして1945(昭和20)年8月6日、原爆が投下された。全半壊した被爆建造物の解体や修復が進められていく中で、廃墟となった広島県産業奨励館も取り壊すべきだという意見が多かったそうだ。
広島平和記念都市建設法が制定されると、広島平和記念公園構想が本格化する。そして、1955(昭和30)年には丹下健三(1913-2005)ほか3名の設計による広島平和記念公園が完成した。広島県産業奨励館廃墟も、広島平和記念碑(原爆ドーム)として留保された。

元安川越しに眺めながら、元安橋を渡って、南面から北面へと回り込む。どこからでも絵になる構図である。

廃墟となってなお存在感を示し、そこに崇高性さえ感じさせたのは、旧産業奨励館が元安川河岸という絵画に適したこともさりながら、骨格の確かさ、すなわち、ヤン・レツルのデザイン力によるところが大きかったのではないだろうか。


広島平和記念碑(通称・原爆ドーム)は、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されており、平和を訴える記念碑となっている。

広島平和公園は、広島平和記念碑(通称・原爆ドーム)を北の起点として、広島平和都市記念碑(通称・原爆死没者慰霊碑)・広島平和記念資料館(通称・原爆資料館)が南北方向に一直線上に位置するよう設計されている。
これを設計した丹下健三ほか3名の案について、『原爆ドーム 物産陳列館から広島平和記念碑へ』では次のように解説する。

丹下が他の応募者が見落としていた旧産業奨励館の残骸とそれが建つ敷地の重要性を認識することができたのは、彼が高校時代を広島で過ごし、戦災復興院の嘱託として復興計画案を策定の折、浜井市長や竹重広島県土木部都市計画課長がそれを残したい意思を持っていることを、おぼろげにでも知りえたことが大きかったかもしれない。



広島平和都市記念碑(通称:原爆死没者慰霊碑)

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再び元安橋を渡り、「平和の灯」から「平和の池」のそばを通って、広島平和都市記念碑(通称・原爆死没者慰霊碑)まで南下する。広島平和都市記念碑には参拝する人で列ができていた。私もその最後尾に並び、アーチの間に原爆ドームがすっぽり収まる構図をこの目で見ることができた。
碑には「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」という碑文がきざまれており、中央の石室には、国内外を問わず、死亡した原爆被爆者全員の氏名を記帳した原爆死没者名簿が納められている。

当初は彫刻家イサム・ノグチ(1904-1988)の案に内定していた。ノグチのデザインは、原爆ドームを臨む巨大なアーチ型の碑で、地上部分だけでなく大きな地下空間を擁するものであったという。
しかしながら、建築の権威、岸田日出刀(1899-1966)が日系アメリカ人というノグチの出自を理由に難色を示し、結局、丹下健三が日本古代の住宅を表す埴輪土器からヒントを得て設計したものになった。
『原爆ドーム 物産陳列館から広島平和記念碑へ』では、イサム・ノグチ案の慰霊碑にも触れている。

一九五〇年代、イサム・ノグチの慰霊碑が実現しなかったのは、戦後まもない時期で、岸田が示したように、国民感情がそれを許容しかねたのかもしれない。また、藤森照信は建築史家としてイサム・ノグチ案で実現しなくて良かったとも述べる。五メーチルにも及ぶ巨大な黒御影の塊が原爆ドームを陰にしてしまう懸念からである。
そのような、国民感情やデザインの視点、国家、政治的な側面も含めて、戦後七〇年が経過した今、イサム・ノグチの慰霊碑の再現が可能か否か、適切か否かを問い直してみる必要があるだろう。



広島平和記念資料館(通称:原爆資料館)

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夏休みということもあって、広島平和記念資料館(通称・原爆資料館)の東館は長蛇の列ができていた。西側の「本館」と、東側の「東館」からなり、観覧は東館から入場し、本館へと巡るコースとなっている。炎天下で暑い中、少しずつ前に進んでいく。
広島平和記念資料館は、1998年には広島国際会議場と合わせて、建設省(現在の国土交通省)の公共建築百選に選出、さらに1999年には広島平和記念資料館および平和記念公園が広島ピースセンターとして、DOCOMOMO Japanの日本の近代建築20選に選出された。2006年には、広島平和記念資料館西館(現在の本館)が、第二次世界大戦後の建築物としては初めて国の重要文化財に指定されている。

広島平和記念資料館が原爆資料館と呼ばれている経緯について、『原爆ドーム 物産陳列館から広島平和記念碑へ』でも触れられている。

広島では、被爆直後から、原爆の影響を受けたと思われる遺物を丹念に拾い集め、採取地等を記録し、標本、資料づくりをしていた人物として、長岡省吾がいた。彼は、被爆当時は広島文理科大学の地質鉱物学教室の嘱託をしていたが、その並々ならぬ蒐集物の存在を知った市が、その資料の提供を願い出るとともに、広島市の嘱託として調査研究を続けるよう依頼し、一九四八年、基町の中央公民館のそばに「原爆資料館」が建設された。これが「原爆」という言葉を使った数少ない施設の一つである。そして、この「原爆資料館」は一九四九年九月、「原爆参考資料陳列室」となった。


所蔵資料の増加に伴い、これらの保管・展示を目的とする新しい展示施設を求める声が高まっていった。新しい展示施設は、広島平和記念公園の全体設計を担当した丹下健三により、公園の中心的な施設として位置づけられることとなった。
丹下健三の設計による「広島平和会館原爆記念陳列館」は1955年に開館した。「原爆参考資料陳列室」の被爆資料は、広島平和会館原爆記念陳列館に移された。初代館長には長岡省吾(1901-1973)が就任した。
当初は、広島平和会館原爆記念陳列館のみだったが、設計者の丹下健三によるコンペティション案では、西側に広島市公会堂(現在の広島国際会議場)を、東側には広島平和会館本館を配して、三棟一体の建築とするよう計画されていた。
1994年に広島平和会館本館を改築した際、広島平和会館原爆記念陳列館と併せて「平和記念資料館」と呼ぶようになり、当初からの建物を西館(現在の本館)、広島平和会館の跡地に新たに建設されたものを東館と称した。この改築に際して、2館は空中回廊で連結された。

平和記念資料館見学ののち、本館の通路から、窓越しではあったが一直線に並ぶ原爆死没者慰霊碑、原爆ドームを見ることができた。

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posted by 今田欣一 at 14:10| Comment(0) | 漫遊★本と旅と[メイン] | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

[本と旅と] テーマパークで夢紀行--ロックハート城

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スタン・ナイト『西洋活字の歴史』とともに


2019年7月21日、参議院議員選挙の投票を済ませて、高崎から上越線で沼田へ。沼田駅からロックハート城前までは路線バスで20分ぐらいなのだが、なんせ2時間に1本ぐらいしか便数がない。あらかじめ沼田駅前の喫茶店でゆったりと昼食をとる計画をたてた。
スコットランドから移築・復元されたというロックハート城にやってきた。見た目は確かに古城である。だがロックハート家は地元の名家ではあるようだが、国王のような権力者ではない。しかも建築されたのは産業革命以後の近代になってからである。城郭でもなく、宮殿でもなく、城郭風の大邸宅なのだろう。
それでも一度は来てみたいと思ったのは、単純にヨーロッパの雰囲気を感じられるのではないかと思ったからである。少しだけ本物に近い、こだわりを持った小規模なテーマパークなのだ。


ウィリアムズ・ガーデン

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入場すると、すぐにウィリアムズ・ガーデンの入り口が目に入ってきた。ウィリアムズ・ガーデンは、開設25周年を記念して2018年4月にオープンしたヨーロッパ迷宮庭園である。

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もともとのロックハート城の敷地内には馬が放牧され、ゴルフのグランドまであったようだ。そこには美しく整えられた庭園があり、フランス様式を取り入れた迷路も設けられていた。ウィリアムズ・ガーデンは、それを再現しようとしたのだろう。
ウィリアムズ・ガーデンは、ロックハート城を建設したウィリアム・ロックハートの名前をとったのだなと思ったが、公式のウェブサイトによれば、ロックハート城の庭園を設計した建築家がウィリアム・バーン氏であり、さらにはロックハート家の始祖もウィリアムだったという事実も合わせての命名だそうだ。そう、ウィリアムばかりなのだ。

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ウィリアムと聞いて、私はウィリアム・キャズロン1世を思い出した。『西洋活字の歴史 グーテンベルクからウィリアム・モリスへ』(スタン・ナイト著、高宮利行監修、安形麻理訳、慶應義塾大学出版会、2014年)では「バロック活字」に分類されているが、一般的には「オールド・ローマン体」と言われている。

1730年までにキャズロンは「大部分の競争相手を凌駕していた」(ウィリアム・ゲット『回顧録』)。彼の活字の質が非常に高かったので、これ以降イギリスはオランダからの輸入活字に一切頼らなくなった。有名な1734年のキャズロンの活字見本帳にはあらゆる種類の活字(ローマン体とイタリック体それぞれ14サイズ、2種のゴシック体、3種のヘブライ語、4種のギリシャ語、6種のラテン文字以外の活字)が載っている。
一世紀後の1839年にチャールズ・ウィッティンガムは叔父からチジック・プレスの経営を受け継いだ。彼は古いキャズロン活字のケース数個を見つけ、おそらく出版者ウィリアム・ピッカリングの提案を受け入れ、同年に印刷した5点の標題紙にその活字を使った。ウィッティンガムは新しく鋳造したキャズロン活字を1844年と1845年の特別な本に使うことを決めた。


ガーデン・エントランスの1829年と年号のある石造物は、ロックハート家の紋章である。庭園内は、多くの家族連れやカップルが散策していた。ロックハート城の城壁を背景に写真を撮っている人もいる。

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園路に従い、緑のトンネル、花の小径、緑の迷路をめぐる。オークの森、湿地の池から緑のラビリンス(迷宮)へと写真を撮りながら散策。ガゼボもある。中央にあるのが緑のラビリンス。そしてアヒルが泳いでいる水辺の庭の周囲には、天然石灰岩(コッツウォルズ・ストーン)が積み上げられている。


セントローレンス・チャーチ

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ハートバザール(土産物屋)を通り抜けると、高さ20メートルのスプリングベルがある。さらに恋人の泉から階段を上ったところに、セントローレンス教会がある。

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公式ウェブサイトによれば、ウィリアム・ロックハートの弟であるローレンス・ロックハートにちなんで命名したそうだ。ローレンス・ロックハートは、神学博士であり牧師でもあった。
ロックハート城が移築されるための解体作業中に、現地で教会の石造物が発見されたという。セントローレンス教会は、当時の城主専用礼拝堂を忠実に再現したそうだ。

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礼拝堂の中までは足を踏み入れることはできなかったが、入り口のところからのぞき見ることはできた。教会内部には18世紀のアンティーク・ステンドグラスが嵌めこまれている。

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18世紀の活字では、ジョン・バスカヴィルの名前が挙げられる。『西洋活字の歴史』では「ネオクラシカル活字」に分類されている。一般的には「トランジショナル・ローマン体」と呼ばれている。

ジョン・バスカヴィルが印刷の実験を始めたのは44歳になってからのことだが、彼の印刷と活字デザインの質の高さは驚異的であり、特にフランスとイタリアのタイポグラフィに与えた影響は計り知れない。彼は独学のアマチュア印刷業者であったが、完璧さの追求においては時間も費用も惜しまなかった。
バスカヴィルの活字書体は独特である。彼は「私の活字は他を真似たもの(の一つ)ではなく、私自身のアイデアによって形作られた」と主張した。バスカヴィルの活字は、かつて「トランジショナル」として知られていた様式の本質をはっきり示している。


この教会で結婚式を挙げる人も多い。ウエディング・サロンも併設されている。披露宴には、ゴージャスな「スクーン」、カジュアルな「タリスマン」という二つのバンケットルームがある。今回は行かなかったが、世界のウエディングドレスを集めた「ウエディング・ドレス・ギャラリー」もあるようだ。


ロックハート・キャッスル

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セントローレンス教会の前からロックハート城を見上げる。前庭ではロックハート城をバックに、写真撮影しているグループを見かける。ドレス姿の女性が多いが、タキシード姿の男性もいる。子供たち、ペットも着飾っている。ロックハート城3階に、そういう体験コースの受付があるのだ。

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1829年に建築されたというロックハート城に入る。1階左手の「ロックハート・ヒストリー」の部屋を見学。1762年にハプスブルグ家より授けられた勅許状などが雑然と展示されている。

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大理石の階段を上って、「世界の城ライブラリー」の部屋へ。ロックハート家ゆかりの文豪サー・ウォルター・スコットの初版本や、城に関する書物が1000冊ぐらい収められているという。

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19世紀のスコットランドと聞いて、まず思いうかべるのは「スコッチ・ローマン」であろう。『西洋活字の歴史』では、リチャード・オースティンの名前を挙げている。「19世紀の活字」に分類されているが「モダン・ローマン体」とされることもある。

19世紀の印刷業界では、ディドやボドニの急進的な活字デザインの結果、彼らの「モダン」様式が規範となっていた。しかし、オースティンがスコットランドの二つの鋳造所のために彫った新しい活字は、意図的に、それほど厳格ではなくもっと実用的に作られていた。
オースティンの活字は、エディンバラのウィルソン家&シンクレア社から、サミュエル・ディキンソン鋳造所経由でアメリカに輸入された。ディキンソンは1847年の見本帳にその活字を載せ、「スコットランド活字」の品質、耐久性、低廉さを賞賛している。こうしてオースティンの活字から派生した活字は、スコッチ・ローマンとして知られるようになった。


最後に、大理石村のもともとの施設であるストーン・アカデミーとストーン・ギャラリーを見学。ストーン・ショップで、路線バスの時間が来るのを待つことにした。

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posted by 今田欣一 at 08:34| Comment(0) | 漫遊★本と旅と[テーマパーク] | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする