2021年11月22日

[本と旅と]川越城とその周辺を歩く(2021年)

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『知の巨人 荻生徂徠伝』とともに

2021年11月21日朝、東武東上線川越市駅から、西武新宿線本川越駅を通って、三芳野神社に向かった。三芳野神社から川越城本丸御殿へ向かう途中に「川越城の七不思議」という説明板がある。

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欣喜堂の漢字書体「金陵」は、中国・明代に南京国子監で出版された二十一史のうちの『南斉書』を覆刻したものである。
その原資料となった南京国子監本『南斉書』は江戸時代にはすでに輸入されており、川越藩主の柳沢吉保の計画で、和刻本『南斉書』として江戸長谷川町にあった松會堂松會三四郎によって出版された。
『南斉書』のほかには、最初に出版した『晋書』のほか、『宋書』、『梁書』、『陳書』が出版されている。この訓点・校注を担当したのが荻生徂徠である。


川越城本丸御殿
川越は城下町である。1590(天正18)年、徳川家康が一族家臣を従えて関東に移ったとき、川越には酒井重忠が封じられた。川越藩は、江戸時代には17万石を誇っていた。江戸時代の本丸御殿は、建物の数16棟、1025坪の規模を誇るものだったという。
柳沢吉保(1659–1714)が川越藩主となり川越城を拝領したのは、1694(元禄7)年1月7日のことである。1704(宝永元)年12月21日、甲斐国甲府城と駿河国内に所領を与えられ国替えとなるまでの10年間、川越城主だった。荻生徂徠が柳沢家に召し抱えられるのもこのころである。
『知の巨人 荻生徂徠伝』(佐藤雅美著、角川書店、2014)という小説には次のように書かれている。柳沢吉保はまだ保明と名乗っていた。
保明はなんと七万二千石をとる大名になっており、武州川越に城を持つに至った。前代未聞の破格の加増を受けていた。将軍綱吉の寵愛を受けることはなはだしかったからで、位は侍従、奥の役人の最高位である側用人でありながら、表の役人である老中格にもなっていた。
百六十石と廩米三百七十俵の時代は家来も数えるほどだった。七万二千余石をとるこのときは四百人も抱えていた。仕官の口などめったにない時代に、柳沢家だけは毎日のように人を雇い入れていた。そんなあるとき、たまたま出会った増上寺の了也という大僧正が出羽守と名乗っていた保明にいった。
「増上寺の門前に風変わりな儒者が学塾を開いております。お抱えになりませんか?」
保明は聞いた。
「どう風変わりなのですか?」
「自分で字書を作って、それで字を教えておるのだそうです。教わった者によると、誰も真似ることができないとても出来のいい字書なのだとか」
「名は?」
「荻生徂徠」


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手指の消毒と検温を経て、川越城本丸御殿に入館する。柳沢吉保が川越城主だったのは元禄時代だが、現存する本丸御殿は江戸時代末期の1848(嘉永元)年に建てられた。

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明治以降、建物の移築・解体が行われ、本丸御殿の玄関部分と大広間のみが、役所、工場、校舎などに使用されていた。玄関部分と大広間だけでも大きな建物で、このような本丸御殿は東日本では唯一で、全国的に見ても高知城にあるだけという貴重な遺構である。

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家老詰所は、本丸御殿に勤めていた藩の家老が詰めていた建物である。この建物は明治初期に解体され商家に再築されていたが、1987(昭和62)年に現在の場所に移築された。


川越市立博物館(川越城二の丸跡)
川越市営初雁球場の横を通って、川越市立博物館に向かう。川越市立博物館と川越市立美術館のある場所がかつての二の丸である。川越城の七不思議のひとつ、霧吹の井戸が残されている。

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消毒、検温、さらに名前と連絡先を記入してから入館する。ちょうど学芸員が常設展示を解説してくれるという時間だった。「近世展示室」では、川越城下町復元模型(500分の1)が圧巻だった。「近現代展示室」では、蔵造りの町並み復元模型を中心に、川越大火と店蔵の成立について説明していただいた。このほか「原始・古代展示室」「中世展示室」「民俗展示室」があった。

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川越市立博物館の第28回企画展「柳沢吉保と風雅の世界」は、2006年10月7日から11月12日まで開催された。この展示を見ることができなかったが、展示図録には『晋書』の図版が掲載されていた。
『知の巨人 荻生徂徠伝』には、この五史の刊行に至る経緯が書かれている。荻生徂徠は川越城に来たことはなかっただろうが、柳沢吉保が川越藩主だった、まさにその時期に、五史の訓点・校注の作業が始まったのである。

一年と九ヵ月という日が過ぎ、元禄十四年十月九日にも御成があった。例によってもろもろの催しが終わり、数寄屋でくつろいでいるとき、綱吉は出羽守にいった。
「二十一史のうち五史がまだ刊行されておらぬ。そなた、刊行してくれぬか」
『史記』『漢書』など中国の正史「二十一史」のうち、『晋書』『宋書』『南斉書』『梁書』『陳書』の五史がまだ刊行されていなかった。それを柳沢家で刊行せよと綱吉はいった。出羽守は応えていった。
「かしこまりました」
柳沢家には二十人を超える儒者がいる。だが、徂徠以外はいずれも帯に短し襷に長し。徂徠の仲人をした細井知慎がまあまあ世間に聞こえていたが、儒者として大成することなく、柳沢家を致仕してからはむしろ書家として名を成している。ほかに、まあまあの志村楨幹がおり、出羽守は徂徠と志村楨幹の二人に「五史を刊行する。訓点を打ち、校注をくわえるように」と命じた。


川越城中ノ門堀跡をみたのち、埼玉県立川越高校の横を通って富士見櫓跡に向かった。


川越城富士見櫓跡
もともと川越城には天守閣が造られておらず、その代用として物見の役割を富士見櫓が担っていた。櫓の周りには木々が生い茂り、外からはただの小高い丘に見える。

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富士見櫓跡に到着した。「川越城富士見櫓跡」という石碑がある。説明板の脇の曲がりくねった登り道は閉鎖されていて入れなかったが、別に真っ直ぐな階段があった。それでも石段をかなり登る必要がある。途中に、富士見稲荷大神・御嶽神社・浅間神社の三社が寄り添うように建てられており、そこに参拝する道のようだ。そこからは本来の登り道になり、さらに石段を登って富士見櫓跡にたどり着く。
合戦の際の物見や防戦の足場として、城壁や城門の高い場所に設けられたのが櫓である。川越城には、東北の隅に二重の虎櫓、本丸の北には菱櫓、そして西南の隅に三層の富士見櫓があった。その中でも城の中で一番高い所にあったのが富士見櫓である。

五史は順次刊行されていったが、そのすべてが刊行されたのは柳沢吉保が国替えになってからだったようだ。『知の巨人 荻生徂徠伝』には次のように書かれている。
『晋書』『宋書』『南斉書』『梁書』『陳書』の五史の訓点・校注の作業の方はまだ終わっていない。ひきつづき毎日、本館に出勤して作業に追われていたころ、七月のこと、
「殿(美濃守吉保)はとうとう、まるまる甲州一国を一円支配することになられた」
という報が館内を駆け巡った。


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現在は更地になっていて何もない。木々の間から川越の街をなんとか臨むことができる。昔は三層の上から川越の街を一望できるのはもちろん、富士見櫓の名のとおり、遠く富士山までも臨めたと思われる。


※足をのばして

川越大師喜多院 客殿、書院、庫裡
昼食後、川越大師喜多院へ。江戸城の紅葉山御殿を移築した客殿、書院、庫裡を拝観する。
1638(寛永15)年の大火によって喜多院のほとんどを焼失したとき、三代将軍徳川家光が江戸城内・紅葉山から移築して、客殿・書院・庫裡に当てた。それによって、江戸時代初期の江戸城の遺構として残されることになった。
客殿には「徳川家光誕生の間」がある。客殿からは紅葉山庭園を見ることができる。家光公お手植えといわれる枝垂れ桜があった。書院には「春日局化粧の間」があり、枯山水の小堀遠州流庭園もすばらしい。庫裡は、現在では拝観入口として使われている。

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客殿

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書院から見る枯山水庭園

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庫裡

仙波東照宮、川越八幡宮を回って、東武東上線川越駅に戻る。
posted by 今田欣一 at 17:10| Comment(0) | 漫遊★本と旅と[メイン] | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年11月01日

「きたかみ」で海へ

札幌駅から特急北斗20号に乗って苫小牧駅へ。駅前からタクシーで苫小牧港フェリーターミナルへ向かう。苫小牧といえば王子製紙の工場だが、暗くなってしまっていて、何も見えなかった。
2021年10月24日午後6時、太平洋フェリー「きたかみ」に乗船。吉田拓郎の「落陽」(作詞・岡本おさみ、作曲・吉田拓郎)を思い出した。
エコノミー・シングルというベッドとテーブルだけの小さな個室に入る。テレビはあるが、地上波は電波が弱く、画面が乱れて途切れがちである。インターネットもここからは繋がらない。

パーソナルコンピューターの普及により、フォントという用語が一般的になった。レタリング(最近では作字というらしい)で必要な文字だけデザインしていたところをフォントとして揃えるようになっているし、書字(手書き)までもフォントとして制作するようになった。むしろそのような創作性の高い書体が求められるようだ。
フォントであるということに間違いはないが、それらとは一線を画すということで、わたしは、あくまで活字書体(タイプフェイス)という言葉を使い続けている。これからも活字書体(タイプフェイス)と言い続けるだろう。
いわゆる本文書体=近代明朝体というのは、明治時代以降の印刷物が、ほとんど近代明朝体で組まれていて、それ以外の選択肢がなかったからである。近代明朝体以外の本文には違和感があるというのは慣れである。慣れということは重要なことだ。これを否定するのではなく、これに固執するのではなく、近代明朝体以外の選択肢があってもいいのではないかと考えている。
「水のように、空気のように」という言葉がある。絶対に必要なものだけど、その存在に気がつかないということが理想である。これは「読んでいてストレスを感じさせない」という意味なので、それは近代明朝体のみに限定されるのではないと思う。

午後7時、出港。初めての太平洋クルーズである。部屋からは港は見えない。夜なので水平線は見えないし、月も星も見えない。iPhoneに入れているアルバムの中から、弘田三枝子の「タッチ・オブ・ブリーズ」(1983)を選び、聴くことにした。

本文書体は大手のメーカーでないと難しい。本文書体の選択の第一条件として、制作字数約20,000字が条件となっている。小さなメーカーでも時間や人数をかければ作れないことはないが、時間と人件費がかかるわけで、相応の経費が必要となる。
さらにはプロポーショナルやカーニングなどのデータ、ウエイト段階の充実なども必要になってくる。これにはタイプフェイス・デザイナーだけでなく、フォント・エンジニアと呼ばれる技術者が必要になってくる。
浸透するまでに期間がかかる本文書体は、大手メーカーでも覚悟がいることである。それでも本文書体を作っているのは、近代明朝体以外の本文書体に取り組む人が少ないからである。私の社会的な役割とも捉えている。

午後10時ごろ、プロムナード(展望通路)に陣取る。夜の海を見ながら、今度は佐野元春のアルバム「Coyote」(2007)を選び出した。

近代明朝体以外の本文書体といっても、まったく新しい書体を創作するということではない。近代明朝体以前に、漢字・和字それぞれに使用されていた活字書体(および木版印刷の字様)を復刻して、現在の文章に適応するように再生させている。
私が制作したのは、日本語(総合)書体8書体(ファミリーを含めると10書体)、和字書体72書体(このほかにファミリー書体がある)である。今後は、これまでに制作してきた書体の完成度、つまり、太さ、大きさ、寄り引きなど、基本的なことを見直すことを考えたい。「読んでいてストレスを感じさせない」すなわち「水のように、空気のように」ということである。
少しの破綻があることを「味わい」だという人があるが、完成度を高めた上で、なお、滲み出てくるのが「味わい」だということを信じている。



来年(2022年)には創業25周年を迎える。私が制作できるのは、あと数年に限られるだろう。どのように継承していくのか――現時点での一番の課題である。

午前5時に目覚めた。日の出予定時刻が午前6時少し前ということで、デッキに向かった。

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水平線から朝日が上り、海を赤く染めるのを静かに見つめている。

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陽はまた昇り、人生の旅は続く。

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posted by 今田欣一 at 08:27| Comment(0) | 活字書体の履歴書・終章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする