2020年09月29日

[漫遊]奥の細道・山形ルートを辿る(2004年)

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橋本治『橋本治のおくのほそ道』とともに

弟が山形へ転勤になったので、母が一度行ってみたいと言い出した。私もそれに便乗して付き合うことにした。
2004(平成16年)年5月28日、金曜日。東京駅で母と待ち合わせて、東北・山形新幹線で山形駅へ。弟が出迎えてくれた。駅前から路線バスで、弟が予約してくれていた中桜田温泉「ウェルサンピア山形」(山形厚生年金休暇センター)に向かう。

立石寺

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5月29日(土)朝、山形駅からJR仙山線に乗車し20分ほどで山寺駅へ。そこから徒歩で宝珠山立石寺、通称山寺へ。弟が山寺観光ガイドの方を予約してくれていて、根本中堂の前あたりで落ち合う。
根本中堂は立石寺という御山全体の寺院の本堂に当たる御堂である。堂内では、本尊として慈覚大師作と伝えられる木造薬師如来坐像をお祀りし、脇侍として日光・月光両菩薩と十二支天、その左右に文殊菩薩と毘沙門天を拝することができる。
まずは松尾芭蕉像と句碑の説明と記念撮影からスタート。『橋本治のおくのほそ道』(橋本治著、講談社、2001年)の現代語訳では、次のようになっている。

二十八 立石寺

山形領に立石寺という山寺がある。慈覚大師が開かれた寺で、とりわけすがすがしい場所だから、ぜひ、見にいくように人々がすすめてくれた。そこで、尾花沢から七里ほどもどった。
日暮れにはまだ時間があったので、ふもとの宿坊に泊まる手はずをしておいて、山の上の僧堂まで登った。山は大きな岩を積み重ねたような形で、松、杉、柏など常緑の老木が生いしげり、地面にも石にもびっしりと苔がつき、岩の上に建てられたどの寺も扉をしめていて、物音ひとつきこえなかった。
崖から崖へ、岩から岩へとめぐり歩きながらつぎつぎに寺を拝観してまわった。景色はこのうえなく美しく、あたり一帯が静まりかえっていて、心が澄みきっていくのを感じたものである。

閑さや岩にしみ入る蝉の声


ガイド人の説明を聞きながら、山門から始まる長い階段をゆっくりと上がって行く。説明によれば石段の数は800段以上だという。観光客は多いのだが、老木の緑に囲まれて静かだ。
途中、せみ塚というところで休憩。松尾芭蕉に連なる弟子たちがこの地を訪れた時に、芭蕉が句の着想を得た場所だとして、短冊を土台石の下に埋めて、この塚を立てたという。
開山堂は立石寺を開かれた慈覚大師の御堂で、百丈岩の上に立てられている。扉が閉じられているが、大師の木造の尊像が安置されている。隣の赤い小さな御堂は山内で最も古い建物だそうだ。奥之院で写経された法華経が納められている納経堂である。さらに、舞台のような五大堂からは山寺を一望できる。
山内には50余の建物が存在している。説明を聞きながら、さらに上へ上へと進んでいく。73歳になる母も元気に階段を上がる。参道の終点が奥之院。奥之院は通称で、正しくは「如法堂」という。慈覚大師が中国で持ち歩いていたとされる釈迦如来・多宝如来の両尊を御本尊としている。また左側の大仏殿には金色の阿弥陀如来が安置されている。
国指定重要文化財に指定されている三重小塔は、室町時代に建てられた三重塔の遺構で、内部には三重塔の本尊である大日如来像が安置されている。岩窟内に納められているうえに、ガラス格子戸が厳重に張られ、その全容を見ることはできない。
山寺の対岸の小高い丘の上にある「山寺風雅の国」で昼食。すぐそばにある「山寺芭蕉記念館」にも立ち寄る。米倉斉加年主演の映画「おくの細道 百代の過客」などを見たりしてのんびりと過ごす。


最上川

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翌30日(日)、山形駅前から定期観光バス「べにばな号」に乗る。途中、天童・竹内王将堂に立ち寄ったあと、古口港(戸澤藩船番所・乗船手形出札處)に到着。最上川芭蕉ライン舟下りである。
松尾芭蕉も、新庄市本合海から庄内町清川まで最上川を船で下っている。『橋本治のおくのほそ道』では、次のように訳されている。


二十九 最上川

最上川を舟で下ろうと考え、大石田という場所で天気が好転するのを待つことにした。
この地には古い俳諧につながるものが生きていて、本来の面白さをもとめる気持ちを、人々がまだもちつづけてくれている。ほんの片田舎なのに、風雅の道で心をなぐさめもし、足先でいくべき方向をさぐるようにして、いま流行の俳諧に身をよせるか、古来の道を守ろうかとまよっている。だが、こちらがわが正しいのだと教えてやる指導者がいない。そこで、やむをえず、歌仙一巻を巻き、それを残していくことにした。こんどの風流をもとめる旅は、はからずもこんな結果を生み出すことになった。
最上川の源流は陸奥にあり、山形あたりが上流にあたる。その流れには、碁点とか隼とかいう恐ろしい難所がほうぼうにある。それらを通過し、歌枕の地板敷山の北を下って、最後は酒田で海にはいっている。
流域の左右はおおいかぶさってくるほどの山で、木々がはえしげった中を、舟に身をまかせていくのである。その舟に稲を積みこんだのが、古歌に詠まれた稲舟というものなのだろうか。
名高い白糸の滝は、青葉にうまった中を落ちていて、仙人堂は川岸ぎりぎりの場所に建てられている。そんな川を下るのだから、水量が豊かなせいもあって、舟が何度となく転覆しそうな危うい目にあった。

五月雨をあつめて早し最上川


最上川舟下りの最大の魅力は、船頭さんが自慢の美声を披露してくれる「最上川舟唄」である。外国からの観光客も多いのだろう、山形訛りの英語や中国語の舟唄も披露していただいた。船頭さんの方言たっぷりな案内も魅力的である。
源義経一行が奥州藤原家(岩手県平泉)に向かう途中、船で最上川を遡って逃げたという伝説が残っている。義経の馬を休憩させて轡(くつわ)を洗ったとされる「馬爪岩」、弁慶があやしい人影めがけて投げた石がめり込んだという「弁慶の礫(つぶて)石」などがある。最上川舟下りの船上から見えるというが、探しているうちに通り過ぎてよくわからなかった。
おくのほそ道に書かれている白糸の滝、仙人堂も義経ゆかりの地だ。義経の正室、北の方はこの白糸の滝を詠んだ和歌を残している。従者であった海尊(かいそん)を祀ったのが仙人堂である。海尊は一行と別れたあと、山伏修行の後に仙人になったという。


羽黒山

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およそ50分の舟下りのあと、終点の草薙港(最上川リバーポート)で昼食。 午後からは羽黒山に向かう。

三十 羽黒

六月三日、羽黒山に登った。
まず図司左吉という人をたずねていき、その人の引き合わせで、会覚阿闍利におあいした。阿闍利は南谷にある別院に泊めてくださって、なにくれとなく心づかい豊かにもてなしてくれた。
四日、本坊若王寺で俳諧を興行することになった。

ありがたや雪をかをらす南谷

五日、羽黒権現に参詣する。当山の開祖といわれる能除大師はどの時代の人であるか、よくわからない。
延喜式に「羽州里山の神社」という記述が出てくる。書きうつすときに、だれかが「黒」という字を「里山」とまちがったのかもしれないし、羽州黒山だったものを短くして羽黒山とよびだしたとも考えられる。出羽というのは、「鳥の羽毛をこの土地の貢ぎ物として朝廷におくった」と風土記にあるというから、そこから出た国名なのだろうか。この羽黒山に月山、湯殿山を合わせて出羽三山とよぶのだ。
この寺は江戸の東叡山寛永寺に属していて、天台宗の教義である止観は月のように明らかに輝いている。円頓融通の天台の伝統にしたがう天台宗の流れはますます盛んで、僧坊も棟を並べるように建ちならび、修験道にいそしむ者は、たがいに励ましあいながら守りつづけている。この霊山霊地のありがたい力を、人々はたいせつにしているばかりではなく、心からおそれてもいるのだ。そのようなありさまだから、この地の繁栄は永遠につづくだろうし、このうえなくたいせつな山だというべきだと思える。


国の重要文化財に指定されている三神合祭殿(さんじんごうさいでん)。月山・羽黒山・湯殿山の三神が合祀されている。月山・湯殿山は遠く山頂や渓谷にあり、冬季の参拝や祭典を執行することができないので、三山の祭典は全て羽黒山頂の合祭殿で行われるのだ。
合祭殿造りとも称される独特の社殿萱葺きの豪壮な建物で、一般神社建築とは異なり、一棟の内に拝殿と御本殿とが造られている。建設当時は赤松脂塗だったが、昭和45年から塗替修復工事が行われ、現在は朱塗りの社殿となっている。
一の坂の登り口、そそり立つ杉小立の間に、五重塔だけが、素木造り、柿葺、三間五層の優美な姿で建っている。ポツンと、というより、どっしりと。国宝である。付近にはもともと多くの寺院があったというが、今は何もない
継子坂を下りると、祓川(はらいがわ)に掛かる神橋に出る。神橋は、向かいの懸崖から落ちる須賀(すが)の滝と相対している。須賀だけにすがすがしい。月山の山麓、水呑沢より引水して祓川の懸崖に落したのだそうだ。
新庄駅に戻る。駅前から送迎の車で、この日の宿泊先である大堀温泉「国民年金健康保養センターもがみ」に。田園のなか建てられた、まさに保養するというイメージそのものの施設であった。


posted by 今田欣一 at 22:24| Comment(0) | 漫遊◇本と旅と | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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