2020年10月01日

[本と旅と]和気清麻呂と空海と神護寺と(2006年)

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司馬遼太郎『空海の風景』とともに


神護寺に参拝したのは、2006年夏のことである。京都駅からはバスで約50分。清滝川に架かる高雄橋を渡り、参道となる三百数十段の石段を登りきると、楓の木立の中に神護寺の立派な山門が見えてくる。
この山門は、1629年(寛永6年)の建築とされる。三間一戸という形式の楼門で、門の両脇には持国天と増長天が安置されている。まさに古刹という言い方がぴったりくる。


和気清麻呂から弘世へ託した夢

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神護寺は、平安遷都の提唱者であり平安京造営の推進者として知られる和気清麻呂が建立した高雄山寺がその前身である。
山門から入って、右手から山道を進むと和気清麻呂公墓がある。今回の神護寺参拝の目的は、和気町の偉人とされている和気清麻呂公の墓へのお参りである。
司馬遼太郎は『空海の風景』という小説で次のように記している。

清麻呂についてもうすこし触れたい。かれは桓武天皇に重用された。桓武という、独裁性がつよく、仕事ずきなこの人物は、官僚を自分の裁量で自由に選んだめずらしい天皇であったとおもえる。空海の本家とされる佐伯今毛人も桓武によってえらばれ、高齢になって心身が疲れはてるまで使われた。和気清麻呂もそのようにして使われたことをみると、有能な男だったのであろう。佐伯今毛人が建築に長じていたように、和気清麻呂は土木に長じていた。平安京の造宮大夫として造都に活躍し、死んで正三位を贈られた。


清麻呂は実務家だったが、長男の弘世は学問の分野で功績をあげた人なのだろう。
※神護寺のパンフレットでは弘世となっているが、『空海の風景』では広世となっている。

その息子の広世は、その学力をもって文章生から身をおこし、ついにはその医学的教養を買われて典薬頭になり、また儒学の教養によって大学頭を兼ねるところまで進んだ。学問や技術の分野に身を置くということは藤原氏との摩擦をおこさずにすむということもあったのであろう。のち広世の家系は比較的ながくつづくが、多くは典薬頭、典薬助、典薬権助、針博士、女医博士といった官職につき、官医としての系譜を保っている。


清麻呂の姉・和気広虫は宮中で高い地位についた女官で、日本で初めて孤児院を開いた人物ともいわれているが、清麻呂の長男・弘世は日本で最初の私学といわれている弘文院を設置しているのだ。

清麻呂が死んだのは空海のまだ二十代のころだったが、かれの遺志は私立図書館を作ることにあったらしく、長男の広世がこの遺志を実現した。弘文院がそれである。広世の私邸は大学の南側にあったが、広世はその私宅を開放して弘文院とし、蔵書数千巻を置き、維持のために墾田四十町歩をこれに付けた。図書館は学校を兼ねたから、私学としてあるいは最古のものかもしれないが、ただしこの私学は他に開放される性質のものではなく、和気氏の子弟のためのものであったらしく、和気氏から後々までも学問技芸の官僚が出ることを清麻呂が望んでいた証拠のようにもおもえる。


現在の京都市中京区には「弘文院址」の碑が建てられている。


和気弘世と最澄、和気真綱と空海

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山道をもどると、和気公霊廟の前の広場に出る。
清麻呂の子息である弘世、真綱、仲世は、最澄、空海を相次いで高雄山寺に招き、仏教界に新風を吹き込んでいる。
弘世と真綱は、比叡山中にこもって修行を続けていた最澄に、802(延暦21)年、伯母である和気広虫の三周忌の法事供養として高雄山寺での法華経の講演を依頼している。弘世のはからいを得た最澄は、還学生(短期留学生)として唐に学ぶこととなった。
弘世が世を去ったのち、高雄山寺は、弘世の弟の真綱、仲世が外護する空海の時代になった。真綱、仲世は、兄の弘世と同じく、文章生から出発して官吏の道を歩んだ。

「空海の住寺は、高雄山寺がいいだろう」
という案をたてたのは、空海を暗に支持している奈良の僧綱所の高僧たちであると見ねばならない。彼らは、その人事権や立案権をもっていた。空海を都に登らせて叡山の最澄を抑えさせるには地の利を得させねばならず、地勢からみて都の東北にある叡山に匹敵する山と言えば、都の西北にある高雄山が最適ということであった老師、さらに政治的にみて、和気氏を空海の保護者にするのはこの時期、案として巧緻すぎるほどに無難である。


それでは、最澄に対してどのように調整したのであろうか。『空海の風景』にはこのように記されている。

空海のこの時期は、高雄山寺に関する限り、広世の弟の真綱の名前が単独で出てくることをおもえば、広世が死に、真綱が和気氏の代表ということになっていたのであろう。奈良の老僧たちは、真綱に話したに相違ない。真綱はおそらく自ら叡山におもむき、最澄にあって、
——海和尚を、高雄山寺に住まわせたいが。
と、はかったと思われる。


空海の十数年にわたる活躍によって、高雄山寺が平安仏教の道場としての内容を整えてくると、真綱と仲世は、これまでの和気氏の私寺的性格を格上げすることを考え、高雄山寺と同じころに建てられていた定額寺(特定の官寺)としての神願寺を合併することを願い出る。そして824(天長元)年にそれが許され、神願寺がこの地に移されると、寺名も神護国祚真言寺(略して神護寺)と改名され、すべてが空海に付嘱された。
京都の東北にある最澄の比叡山延暦寺はよく知られているが、京都の西北に位置する空海の高雄山神護寺も、それに匹敵する寺ではないかと思う。


神護寺の現在——衰退と再興を経て

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空海の時代の神護寺は、東寺や金剛峯寺に勝るとも劣らぬ地位を維持したことを示していたが、平安末期の神護寺は、大変衰微していた。
これを復興しようという大願を起こしたのが、文覚上人であった。1168(仁安3)年に当寺を訪れた文覚は、さっそく草庵をつくり、薬師堂を建てて本尊を安置し、空海住坊跡である大師堂(納凉殿)、不動堂等を再建した。
その後も衰退と再興を繰り返すことになった。山門から和気公霊廟の前の広場をさらに西に進むと五大堂と毘沙門堂が見える。ともに1623(元和9)年に再建されたといわれ、江戸時代初期の様式を示している。
毘沙門堂の南西にあるのが重要文化財の大師堂である。1168(仁安3)年の再建と伝えられるが、細川忠興が改造して、細部は桃山様式になっている。小さな堂ではあるが、空海の納涼殿ともいわれ、住宅風の建物である。
明治維新とともに廃仏毀釈の弾圧によって、寺領は解体され、消滅してしまった。現在の姿になったのは1930(昭和5)年に清厳老師が入山されてからのことである。
1935(昭和10)年に、大阪の豪商・山口玄洞氏の寄進により、前述の和気公霊廟や、金堂、多宝塔ほかが再興され、旧堂も修復された。金堂は、五大堂と毘沙門堂から石段をすこし上がったところにある。単層屋根入母屋造本瓦葺の、堂々として華やかな、昭和の代表的な仏殿である。そして、1952(昭和27)年に寺領の一部を境内地として政府より返還され、今日に至っている。
金堂、多宝塔まで来たところで、雷鳴とともに、にわか雨が降りだした。急いで山門までもどった。他の参拝客とともに、そこで雨宿りすることにした。
境内最西端の地蔵院の庭からのかわらけ投げと、そこから眺める清滝川の清流がつくる錦雲峡の眺めは観光の名所だというが、そこに行くのは断念した。雨が小降りになったところで、帰途につくことにした。


posted by 今田欣一 at 19:56| Comment(0) | 漫遊★本と旅と[メイン] | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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