2020年10月02日

[本と旅と]東京のランドマーク(2013年)

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津川康雄監修『江戸から東京へ』とともに


東京スカイツリーが2012(平成24)年5月に開業したとき、母が行ってみたいと言い出した。元気とはいえ高齢なので、混雑する開業当初はちょっと無理だろうと思っていた。1年経って、母は82歳になっていたが、やはり行きたいという。今行かなければ、年齢的にもう無理かもしれないと思えてきたので、思い切っていくことにした。
はとバスに「国会議事堂と東京スカイツリー」というコースがあったので、これに参加することにした。東京駅丸の内南口を出発し、皇居・二重橋前・千鳥ヶ淵・半蔵門を周回し、国会議事堂見学。昼食後、東京スカイツリー天望デッキからの展望。車窓から新しくなった歌舞伎座を見ながら、東京駅丸の内南口へ到着するというコースだ。
何かガイドブックのようなものがないかと思っていたところ、偶然に『江戸から東京へ 大都市TOKYOはいかにしてつくられたか?』(津川康雄監修、実業之日本社、2011)という新書を見つけた。国会議事堂、スカイツリー、国技館が取り上げられているので買ってみることにした(※以下『江戸から東京へ』と略す)。


国会議事堂

2013年5月25日。午前9時50分に東京駅丸の内南口を出発。
『江戸から東京へ』では、第1章「大江戸八百八町は世界一の大都市だった」で、まず江戸城跡(現在の皇居)が取り上げられている。皇居前広場や皇居東御苑には以前訪れたことがある。

その構成は、本丸・二の丸・三の丸からなる本城(現・東御苑)と、前将軍の隠居所と後継の居所の西の丸や紅葉山を中心に、それらを取り囲むように吹上、北の丸などがあり、これを内郭といい、幕府の要職にある大名家の屋敷などが置かれた。


皇居を車窓から見ながら、ほぼ時間通りに国会議事堂前に到着。
国会議事堂は1920(大正9)年に着工されたが、関東大震災の影響などもあって、17年の歳月を要して1936(昭和11)年に完成した。『江戸から東京へ』では「第3章 震災の悪夢から立ち直った復興都市」の中で、国会議事堂について記されている。

議事堂の設計にあたっては、外国人の設計は国情に合わない輸入物だとして、邦人に限ってデザイン案が募集された。応募総数118人のなかから宮内省(現・宮内庁)技手の渡邊福三の図案が当選、懸賞金1万円が贈られた。しかし、実際には渡邊の案に大幅な修正が施されたものとなった。渡邊は、当選してわずか5カ月後に急死。当時流行していたスペイン風邪による病死とされる。


かなり長い時間待たされた。母は高齢なので立ったままでいることは心配だった。もちろんベンチなどはないので、仕方なく壁際に腰を下ろすことにした。
やっと担当の職員が来て見学が始まったが、いきなり3階まで階段を上がるという。別コースでエレベーターを使うこともできるが、母は階段で皆さんと一緒に行きたいという。意外と元気に上がっていった。
参議院の傍聴席に到着し、やっと一息つく。傍聴席に座って担当者の説明を聞く。そこから、国会議事堂の内部を巡りながら、階段で降りてゆく。
議事堂の石材は、ほとんどすべてが国産だそうだ。わが国の石材の豊富なコレクションの展示場といえる。柱や壁、階段の手摺りの石材には、各種の化石を見出すことができる。さらにはシャンデリア、ブラケットなどの金工、議長席や演壇、壁面、扉の木彫など、見るものすべてが美術品・工芸品である。

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東京スカイツリー

『江戸から東京へ』では「第4章 敗戦後の高度成長から近代的な都市へ」の中で、東京タワーについて記されている。

そして、高さ333メートルの東京タワーは、新時代のランドマーク——テクノランドマークである。1958(昭和33)年に完成して以来、半世紀以上にわたって東京のシンボルであり続けた。また、高度経済成長の象徴としても新しい日本の象徴としても、東京タワーは、「重層的な意味」を持つランドマークであり続けた。


東京タワーは正式には日本電波塔という。東京タワーが位置する都心部では、超高層建築物が林立して電波が届きにくくなっていたほか、携帯機器向けの放送を快適に視聴できるようにするなどの目的もあって、新しい電波塔が必要になっていた。そして東武鉄道の貨物駅跡地に建設されたのが東京スカイツリーである。
昼食後、車窓からいろいろな方向から眺めながら、東京スカイツリーに近づいてくる。そして、「終章 世界が注目する近代都市TOKYO」で東京スカイツリーを取り上げている。

東京スカイツリーは、東京を象徴する新しいランドマークである。高さは634メートル。ワイヤで吊られるなどしない自立式の電波塔としては、世界一の高さを誇る。建築物全体で見ても、ドバイにある超高層ビル、ブルジュ・ハリファ(高さ828メートル)についで2番目に高い。もちろん、日本一の高さであることは言うまでもない。


東京スカイツリーの天望デッキ(第一展望台)へは、天望シャトルと呼ばれるエレベーターで一気に上がっていく。眼前に地上350mからの展望が開けていく。さらに上にある450mの展望回廊(第二展望台)に行くこともできたが、母には無理をさせられない。出口フロアのスカイツリーショップまで降りて、ゆっくりと買い物をすることにした。

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歌舞伎座を車窓から見た後、東京駅の丸の内南口に到着。


国技館(両国新国技館)

これまで母と帝国劇場で演劇を観たり、歌舞伎座で歌舞伎を観たりということはあったが、スポーツにはそれほど興味がなかったようだ。でも大相撲だったら一度ぐらいは観戦してもいいなということになった。
2013年5月26日。今まで使ったことのない市営の「つるワゴン」で最寄り駅まで行き、駅ではエレベーターを利用しながら、電車を乗り継いで池袋へ。母のリクエストで、昼食は池袋でスパゲティ。さらに電車を乗り継いで、両国駅に到着。

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『江戸から東京へ』の「第2章 文明開化の槌音高く建設された帝都・東京」の中で国技館について記されている。

相撲の歴史は古いが、国技館という興行場の始まりは1909(明治42)年で、本所回向院(えこういん)境内に設けられた。開館の式辞を書いた文士が「相撲は日本の国技」と表現したことをよしとし、翌年には国技館と改称。関東大震災や第二次世界大戦などで被害を受け修復されたが、戦後はアメリカ軍に接収される。
1954(昭和29)年、相撲協会は隅田川の対岸、蔵前につくった体育館様式の国技館に移った。その後、老朽化により新たな建物が必要になり、再び両国へ。駅北側の操車場の跡地だった現在地に新国技館を建設し、1985年1月9日、土俵開きが行なわれた。


大相撲夏場所千秋楽を国技館の上の方の席で観戦する。ちょうど協会御挨拶の前あたりから見ることができた。
母がトイレに行くために席を離れた。戻るときに目の前の入り口から出たのはいいが、席とは反対方向にどんどん歩き始めてしまって慌てた。こちらからは見えていたので、なんとか事なきを得た。
さて、優勝の行方である。13日目まで横綱白鵬と大関稀勢の里が全勝で並んでいた。14日目の直接対決で白鵬が稀勢の里をすくい投げで敗って一歩リードしたが、千秋楽の勝敗次第では優勝決定戦もあるのではと期待していた。
ところが稀勢の里が大関琴奨菊に寄り倒しで敗れて13勝2敗となり、この時点で白鵬の優勝が決まった。白鵬は横綱日馬富士を寄り切りで敗って、優勝を15戦全勝で飾った。

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千秋楽なので、表彰式、出世力士手打式、神送りの儀式まで、テレビでは放送されない行事を、ゆっくりと観ることができた。


posted by 今田欣一 at 19:32| Comment(0) | 漫遊★本と旅と[メイン] | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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