2020年10月07日

「KOほくと武英M」のものがたり3

漢字書体「武英」のはなし(後)

『古今図書集成』は、江戸時代には、ただ一部だけ日本に存在したそうだ。

『古今図書集成』の全書を持ち渡るようにとの吉宗の命令は、宝暦10年(1760)の辰一番船によって果たされた。『欽定古今図書集成 一部六百套、九千九百九十六本、目録二套三十二本』である。船頭は汪縄武、値段は25貫目、宝暦14年正月19日に紅葉山文庫に搬入された。しかし注文主の吉宗は、寛延4年(1751)6月にすでに死んでいた。


『徳川吉宗と康煕帝 鎖国下での日中交流』(大庭脩著、大修館書店、1999年)には、このように書かれている。惜しくも徳川吉宗は入手を命令しながらも、『古今図書集成』の明朝体を見ることはなかったのだ。
この『古今図書集成』にもちいられたのは銅活字である。整然とした明朝体で、過渡期明朝体を代表するものである。この活字は乾隆帝によって1744年に鋳つぶされたと言われる。結局は『古今図書集成』でしか使われていない。
『古今図書集成』の過渡期明朝体をデジタルタイプとして再生しようとしたのが、漢字書体「武英」である。「武英」は、「日本語書体八策」にも含まれている。康煕帝と徳川吉宗の夢を引き継いで、いずれ制作することにしている。
漢字書体「武英」は、清・康熙帝が計画した銅活字版『欽定古今図書集成』から復刻した書体で、そのカテゴリーは「過渡期明朝体」としている。
「カテゴリーとか名前とかはどうでもいいことだ。普遍性と読みやすさだけを考えればいい」という意見もあるが、それを追求するためにも、個人の感性や体験だけでは得られない幅広い視野で、書体の時代的な変遷や様式の成立をたどり、分類して整理することは有益なことであると考える。

2019年10月5日(土)に開催した「typeKIDS Meeting Autumn 2019」では、株式会社文字道写植工房の見学の後、そして小江戸蔵里(川越市産業観光館)つどい処展示蔵ギャラリーでの展示会へとつづくという企画である。
ギャラリーでの開催ということで、制作途中ではあったが、漢字書体「武英」の1200文字を壁一面に並べた。

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