2020年11月12日

[本と旅と]鎌倉碑めぐりウォーク(2020年)

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松尾剛次『中世都市鎌倉を歩く』とともに


源氏の鎌倉をたずねて――2020年9月26日午前

スタートは由比ヶ浜。午前九時半、曇り空。今はもう秋なので、もちろん海水浴の人は誰もいないが、サーフィンをする人や散歩をしている人はいた。
この海から若宮大路は始まっている。鶴岡八幡宮の参道であるから、ここから歩くことにした。一の鳥居は道の真ん中にあり近づくこともできない。二の鳥居から段葛になる。ひたすら歩いた。
鶴岡八幡宮は、それなりの人出であった。舞殿では結婚式が執り行われていた。源頼朝(1147–1199)が、現在の地に遷したのだが、建物は江戸時代の造営されたものである。

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本殿参拝の後、大蔵幕府跡へ向かう。大蔵御所は、源頼朝が1180(治承4)年に鶴岡八幡宮の東側にある大蔵郷に建てた館である。頼朝、頼家、実朝と続き、北条政子(1157–1225)が亡くなるまでの46年間、この地が鎌倉幕府の中心であった。現在は清泉小学校になっており、「大蔵幕府旧跡」の碑が建っているのみである。小学生による説明が提示されていた。
『中世都市鎌倉を歩く―源頼朝から上杉謙信まで』(松尾剛次著、中公新書、1997年)では「大倉御所」と記されている。

大倉御所は、当時の代表的な建築様式である寝殿造であった。寝殿造というと貴族の住宅で、武家の棟梁である頼朝の屋敷に相応しくないのではと思われがちであるが、実に、将軍御所は寝殿造であった。しかし、そもそも頼朝は、平安京で生まれ、貴族的な環境で育ち、貴族的な文化を身に付けていたのであって、彼の屋敷が寝殿造であっても不思議ではなかった。


大蔵御所(大倉御所)の西に鶴岡八幡宮、東に永福寺、南に勝長寿院があった。北には法華堂があったと推測されている。とくに永福寺跡は史跡公園として整備されているそうなので立ち寄ってみたかったところだが、ルートの関係で、次の日に訪ねることにする。

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北条氏の鎌倉をたずねて――2020年9月26日午後

昼食の後、建長寺と円覚寺へ向かう。
建長寺は鎌倉幕府五代執権・北条時頼(1227–1263)が建立した。開山(創始者)は蘭渓道隆である。方丈では、金澤翔子さんの20歳の時の屏風『般若心境』が特別公開されていた。三門ではちょうど土曜法話会が行われていた。
円覚寺は、開基が八代執権・北条時宗(1251–1284)、開山は無学祖元(仏光国師)である。JR横須賀線によって総門と前庭が遮られているのは残念なことだ。大方丈には、金澤翔子さんの屏風『佛心』が展示されていた。
北鎌倉駅から鎌倉駅に戻る。小雨模様になった。源実朝暗殺によって源氏の将軍がとだえ、北条の時代になると、北条義時邸(仮御所)に始まり、宇津宮辻子幕府、若宮大路幕府と、短期間で移転している。それを辿ってみることにした。

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「宇津宮辻子幕府跡」の碑は宇都宮稲荷神社の脇に建てられている。宇都宮稲荷神社は、宇都宮朝綱(1122–1204)に勧請されたといわれる。宇津宮辻子幕府の一角に宇都宮稲荷神社が祀られていたのだろう。わずか11年間、ここが政治の中心になった。
「若宮大路幕府跡」の碑は旧大佛次郎茶亭の近くにあった。旧大佛次郎茶亭は市指定の景観重要建築物で、作家の大佛次郎(1897–1973)が鎌倉文士らとの交流などに活用したところだ。1919(大正8)年ごろの建築とされる趣あるかやぶき屋根だが、現在は閉鎖されていた。

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1236(嘉禎2)年8月4日、御所は宇都宮辻子の北側の若宮大路御所へ移転する。この御所は、若宮大路の東側に面していたために若宮大路御所という。この移転は、九条頼経が大病を患い、その原因が宇都宮辻子の土公(土を司る神)が祟りをなしているためと考えられたからであったようだ。これ以後、宝治合戦後の人心の刷新のためか、1247(宝治元)年7月に移転が計画されたが、結局は移転しなかったので、若宮大路側に政治の中心が固定することになった。

鎌倉歴史文化交流館に行く時間はなかった。これでこの日の予定は終了ということで、鎌倉駅近くのカフェでゆっくりと珈琲を飲みながら、足の疲れをとることにする。


足利氏・上杉氏の鎌倉をたずねて――2020年9月27日午前

この日はすっかり晴れた。まずは京急バスで大塔宮まで移動。瑞泉寺に向かう途中で、前日行けなかった永福寺跡に立ち寄る。
瑞泉寺は、鎌倉公方(足利公方)の菩提寺で、鎌倉に残る鎌倉時代唯一の庭園で知られる。中興開基が足利基氏、開山が夢窓疎石(夢窓国師)である。
浄妙寺は、極楽寺として1188(文治4)年に創建された。開基が足利吉兼、開山が退耕行勇とされる。鎌倉公方(足利公方)邸の西隣に位置する、足利氏の氏寺である。
浄妙寺の東側には「足利公方邸跡」の石碑が建てられている。

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1349年7月に足利基氏が鎌倉に下向し、以後、基氏の子孫が鎌倉公方(鎌倉御所)として、東国十ヵ国統括する体勢が成立していった。
この鎌倉府は、室町幕府の組織を小規模にしたもので、鎌倉公方のもとに、関東管領がおかれ、評定衆、引付衆、政所、問注所、侍所、禅立奉行などがあった。


京急バスで、いったん鎌倉駅に戻り、JR横須賀線で北鎌倉駅へ。今度は関東管領であった上杉氏のゆかりの地を巡ることにする。鎌倉公方を補佐する関東管領の上杉氏はいくつかの家に分かれたが、そのひとつが山内上杉氏である。
北鎌倉駅から明月院までは徒歩数分である。明月院は中興開基が関東管領・上杉憲方、開山は密室守厳という。もともとは禅興寺という寺の塔頭であったといわれている。
明月院を後にして、ひたすら歩いて亀ケ谷坂切通を抜ける。JR横須賀線沿いにしばらく進むと、日蓮正宗護国寺の駐車場の脇に「扇谷上杉管領屋敷迹」の碑がある。扇谷上杉氏は、山内上杉氏とともに、両上杉氏と呼ばれた。

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鎌倉公方足利氏と関東管領上杉氏による体制は、次第に公方派と管領派の対立となり、享徳の乱(1459–1482)を契機に公方は鎌倉を離れ、古河に拠点を移すことになった。

享徳の乱以後、鎌倉のある相模国を支配したのは、扇谷上杉氏とその家宰の太田氏であった。
太田氏は、丹波国太田郷(京都府亀岡市)の出身であるが、太田氏の祖資国は上杉重房に仕え、1252(建長4)年の宗尊親王の関東下向にさいして、重房とともに鎌倉に下ったという。以後、主家の上杉氏の繁栄とともに栄えた。太田氏の中でも、剃髪して道灌(1432–1486)と名乗った資長は、江戸城を築くなど江戸の発展の基礎を形成した人物として広く知られている。


太田道灌の邸宅跡は、鎌倉唯一の尼寺である英勝寺となっている。花の寺として知られており、境内は彼岸花で彩られていた。

午後から鎌倉文学館へ行く予定だったが、あいにく展示替えで休館とのこと。昼食を取った後、そのまま帰宅の途につく。鎌倉からJRで横浜まで行けば、あとは東急東横線・地下鉄副都心線・東武東上線直通のFライナーだ。便利になったものだ。
posted by 今田欣一 at 08:58| Comment(0) | 漫遊★本と旅と[メイン] | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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