2022年03月04日

[本と旅と]旧江戸城をまわる--紅葉山文庫・昌平坂学問所(2022年冬の旅)

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『日本印刷文化史』とともに

江戸東京博物館

2022年2月25日、江戸東京博物館へ行く。

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3階のチケット売り場で、65歳以上割引のチケットを購入し、長いエスカレーターで6階へ。常設展示室の入口だ。実物大で復元した日本橋を渡ると、幕末の「江戸城本丸御殿・二の丸御殿」の縮尺(200分の1)復元模型がある。にも、寛永時代の町人地や大名屋敷などの縮尺模型があって楽しい。

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5階に降りて企画展示室へ。「徳川一門 将軍家をささえたひとびと」が開催されていた。徳川家康から徳川慶喜までの将軍と、御三家・御三卿など徳川一門の人物について、さまざまな資料を通して紹介する展示であった。

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1603(慶長8)年に征夷大将軍となった徳川家康は、江戸を本拠地とし、この地に幕府を開く。日本橋を中心に堀や道を設け、江戸城の周囲に武家や町人、寺社などの居所を定めた町割りを行った。印刷文化史についても多大な役割を果たしたことで知られている。
『日本印刷文化史』の6章「徳川家康を中心とする印刷・出版合戦」では次のように書かれている。

朝鮮出兵を契機に朝鮮半島からもたらされた銅活字を、秀吉が後陽成天皇に献上したことはすでに述べた。家康は、この時献上された銅活字を借り、活字を作り上げたのである。その発端となったのが、1606(慶長11)年である。

日本人の手による最初の銅活字をつくり、印刷・出版を行ったことにより、家康は、武家同士の印刷・出版合戦を制したといえるだろう。それは同時に、献上された銅活字を用いて印刷した後陽成天皇=公家(天皇)に対しても、文化・学術面で優位に立ったと実感できたのではないだろうか。


5階常設展示室「江戸ゾーン」での注目は、「出版と情報」コーナーの書物・地本問屋兼業、和泉市兵衛の店「甘泉堂」の原寸大復元模型である。『東海道名所図会』(北尾政美・画、1797年)をもとに復元したという。

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地本問屋とは浮世絵や草双紙など娯楽用の絵入り本を出版する本屋、書物問屋は学術書や宗教書を出版する本屋のことだ。店舗の復元模型とともに、多彩な出版物が展示されていた。

『日本印刷文化史』の8章「京都・大坂・江戸 三都出版物語」では次のように書かれている。
近世の京都、大坂、江戸の印刷の移り変わりをみてきた。戦の無い江戸時代において、時間をかけて木版による整版印刷が成熟し、ビジネスとしての印刷が形成されてきた。
供給面では木版印刷技術の発展、各地での商品作物の展開や殖産興業などにより印刷に必要な原材料を供給できる体制が整ったこと、需要面では印刷物を消費する層が出現し庶民にも広まったこと、それにより学術的な印刷物だけでなく、草紙や錦絵などの一般庶民向けの印刷物が多様化したこと、文治政治の浸透で識字率が向上したことなど、印刷が産業として成立するために必要な条件が整ったのである。


5階常設展示室「東京ゾーン」での注目は、「文明開花東京」コーナーの「朝野新聞社」の原寸大復元模型である。

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「朝野新聞社」は「銀座煉瓦街」の縮尺(25分の1)復元模型の中にもある。銀座4丁目交差点北西角にあり、1874(明治7)年に創業された。主筆は末広鉄腸。自由民権運動の高揚に伴い名声を得た。出版された新聞は別のコーナーで展示されている。
『日本印刷文化史』の16章「戊辰戦争、そして明治政府による改革へ--幕末明治の活字文化」では『東京日日新聞』について書かれている。

1872(明治5)年には『東京日日新聞』(現『毎日新聞』)が登場する。当初は活版での発刊を目指していたが難しく、整版を併用しながらの運用となった。第1号は木版刷り、2〜11号は活版刷り、12号〜117号で再び木版摺りに戻り、その後303号まで木活字による印刷と続く。304号からは全面的に活版に切り替わり、工部省勧工寮の活字、東京築地活版製造所の活字が使用された。活版印刷の普及による新聞という情報メディアの浸透は、民衆に言論の自由を意識させるきっかけとなった。このことが、政府への批判とそれに伴う弾圧を繰り返しながら自由民権運動を下支えし、その後の国会開設・憲法制定へと繋がっていくのである。



皇居東御苑(旧江戸城)〜国立公文書館

2月26日の午前中は、旧江戸城本丸御殿・二の丸御殿跡の「皇居東御苑」と、北の丸跡の「北の丸公園」をめぐる。
「皇居東御苑」は、旧江戸城の本丸・二の丸・三の丸の一部を整備し一般公開された皇居付属庭園だ。21万平方メートルにも及ぶ広大な庭園である。午前9時の開門とともに、「大手門」から入園する。「大手門」は参勤交代の際に諸大名が登城するときに使われていた江戸城の正門だ。

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「大手門」を抜けると、左手に「三の丸尚蔵館」がある。皇室に受け継がれてきた絵画・書・工芸品などが展示されているということだったが、残念ながら新施設への移転準備のため、現在は休館中であった。
「江戸城本丸」が建っていた場所は、広大な芝生広場になっている。当時武器や文書の倉庫として使われていた「富士見多聞」を見学。代用天守として重要な役割を果たした「富士見櫓」は周辺が工事中で、近くには行けない。

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「江戸城天守閣」は大きな火災で消失したまま再建されていない。その土台となる「天守台」の上まで登って芝生広場を眺める。「本丸休憩所増築棟」で、天守閣の復元模型(縮尺30分の1)を観覧。思っていたより立派なものだった。
「江戸城本丸」跡から汐見坂を下る。白鳥濠の前に広がる「二の丸雑木林」が二の丸御殿のあったところ。さらに進むと「二の丸庭園」が見えてくる。九代将軍徳川家重の頃の庭絵図面をもとに復元した回遊式庭園だ。

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「北桔橋門」から「皇居東御苑」を退出し、「旧江戸城清水門」から「北の丸公園」へ。旧江戸城北の丸には、徳川氏の御三卿であった田安徳川家、清水徳川家の上屋敷があった。田安徳川家は「田安門」から、清水徳川家は「清水門」から名付けられたそうだ。

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「北の丸公園」を急ぎ足で回ったのち、「国立公文書館」を訪れる。受付で記名してから、企画展、常設展を観覧する。

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「国立公文書館」は、政府の付属機関などから移管された歴史資料など重要公文書を一般公開している。代表的な所蔵資料群として、①紅葉山文庫、②塙保己一と和学講談所、③林羅山と昌平坂学問所のパネルが展示してあった。

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『日本印刷文化史』の22章「日本の図書館の歴史」でも、紅葉山文庫について書かれている。

徳川幕府の御文庫として、紅葉山文庫があげられる。将軍家の文庫は、徳川家康が江戸城本丸に「富士見の亭」と呼ばれる文庫を設けたのが始まりとされる。その後、三代家光の時代、江戸城内紅葉山に新たな書庫が建てられた。これが紅葉山文庫と呼ばれ、今日まで知られているが、この文庫の完成の折に富士見亭の蔵書も紅葉山文庫の中に収まることになった。


紅葉山文庫に収蔵された書物は書物奉行によって管理されていたので、きわめて保存のよい状態で現在に伝わっている。『御書物同心日記』『続 御書物同心日記』『御書物同心日記 虫姫』は、江戸城内紅葉山文庫に勤務する御書物方同心を主人公にした短編小説集だ。「文庫版あとがき」として徳川吉宗が『古今図書集成』を購入したエピソードが書かれている。

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同じく、昌平坂学問所の文庫についても書かれている。

教育施設の文庫は、幕府直轄の昌平坂学問所にも存在した。昌平坂学問所の始まりは林家の私塾であり、その文庫も林家、特に林羅山の蔵書から始まった。


紅葉山文庫の蔵書と、和学講談所、昌平坂学問所などの蔵書は、後の内閣文庫に引き継がれ、現在は国立公文書館が所蔵している。
企画展、常設展をまわった後、館内の「デジタルアーカイブ」コーナーで、過去の企画展「将軍のアーカイブズ」を閲覧した。紅葉山文庫の蔵書に関連した展示である。国立公文書館では、デジタルアーカイブの構築を進めており、内閣文庫の和書漢籍約43万冊がインターネット上で目録情報を検索できるようになっている。

国立公文書館の特別展「漢籍」の図録。紅葉山文庫、昌平坂学問所の蔵書が多く掲載されている。

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旧前田家本邸〜日本近代文学館

午後からは、東京コース。毎日新聞社、和気清麻呂像、皇居前広場を経て、東京駅へ向かう。東京メトロ丸の内線、千代田線、小田急小田原線を乗り継いで、東北沢駅へ到着。少し遅めの昼食をとって、徒歩で駒場公園正門へ。

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駒場公園は、加賀百万石の当主だった旧前田家の前田利為侯爵駒場邸跡で、現在は目黒区に移管されている。旧前田家本邸・洋館、和館は、どちらも重要文化財(建造物)に指定されている。カントリーハウス風の洋館は昭和4年、書院造の和館は昭和5年に完成したものである。

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洋館は、新型コロナウイルス拡大防止措置のため一般公開を休止していたが、パンフレットによると、1階には、玄関広間、大食堂、大小客室がある。2階はプライベートな空間で、寝室、書斎などがあり、豪華な内装が復原されている。

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和館は、現在1階部分が一般に開放されている。玄関から大廊下、御次の間、御客間へと続く。杉戸絵や欄間の透し彫りなどの美しいつくりを見ることができる。縁側からは、落ち着いた雰囲気の日本庭園がのぞめる。


和館北側には、日本近代文学館がある。

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企画展「明治文学の彩り 口絵・挿絵の世界」を観覧した。江戸時代の戯作者のように、幸田露伴、樋口一葉、島崎藤村など明治時代の近代作家たちも、口絵・挿絵に指示を出していたという。絵から文学を捉え直すという面白い企画の展覧会であった。

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日本近代文学館は、図書や雑誌を中心に、数々の名作の原稿も含め、120万点の資料を収蔵する。それらの資料を、閲覧室や展示室で公開しているほか、いろいろな講座・講演会などを開催している。
文学館は、近代文学専門図書館と見ることもできる。『日本印刷文化史』の22章「日本の図書館の歴史」では次のように書かれている。

高度成長期を迎えると、公共図書館の新築や増改築が盛んとなり、公共図書館の増加が見られる。中には特徴的な活動により注目を集めた館や、先駆的な活動を行った館もあり、これらが今日の図書館サービスへと結実していった。


近代文学の名著を初版当時の造本で復刻した日本近代文学館の「名著復刻シリーズ」は筆者も何冊か所有しており、貴重な資料となっている。

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[追記1]

湯島聖堂・昌平坂学問所跡〜文京ふるさと歴史館

後日、湯島聖堂・昌平坂学問所跡に行ってきた。

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1797(寛政9)年に林家の塾から切り離されて、幕府直営の昌平坂学問所(昌平黌)が開設された。昌平坂学問所は当時の最高学府として、幕臣の教育(朱子学)が行われ、諸藩の優れた藩士たちも学び、幕府における文教の中心的役割を果たした。
明治維新後、昌平坂学問所跡地には大学校や文部省、師範学校が設けられ、近代教育の拠点となった。現在は大部分が東京医科歯科大学となっている。

文京ふるさと歴史館の常設展示では、「文化の風景」のコーナーで「聖堂と昌平坂学問所」として展示されていた。(写真撮影承認済)

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「昌平坂学問所」の縮尺(250分の1)復元模型がある。

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(2022年10月12日)


[追記2]

皇居乾通り一般公開(令和六年春)

東京駅から遠回りに設定されたコースを歩き、手荷物検査、セキュリティー・チェックを経て坂下門にたどり着いた。皇居乾通りは春と秋それぞれ一週間だけ公開される。

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坂下門から参入し、宮内庁庁舎の前に進む。宮内庁庁舎(旧宮内省省舎)は、1935(昭和10)年に竣工された。

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その左手に、旧江戸城富士見櫓が見える。富士見櫓は1657(明暦3)年の大火で消失後に再建された。天守閣は再建されなかったので、富士見櫓が天守閣の代用とされたそうだ。

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乾通りを進むと門長屋が見えてくる。門長屋は1887(明治20)年に建てられた。門長屋の奥は御養蚕所になっている。江戸時代には書物蔵「紅葉山文庫」があった。

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宮内庁庁舎から道灌堀までが紅葉山、そこから吹上(曲輪)である。乾門から退出。乾門は、門長屋の場所にあった「紅葉山下門」を移築したものだ。


皇居東御苑へ。ここは何度も来たことがあるので、急いで通り抜けて「皇居三の丸尚蔵館」へ。開催されていた「開館記念展」を観る。


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(2024年3月24日)
posted by 今田欣一 at 21:54| Comment(0) | 漫遊★本と旅と[メイン] | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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