『わかる!和華蘭 新長崎市史』とともに
5月10日朝。博多駅から「リレーかもめ13号」と西九州新幹線「かもめ13号」を乗り継いで、長崎駅に到着。
午前中に到着したので、まず宿泊する旅館「和みの宿おりがみ」に向かった。この旅館は長崎駅から徒歩8分で、長崎歴史文化博物館までの通り道にある。チェックインは15時以降となっていたが、荷物だけ預かってもらえるだろうと思っていた。ところが玄関には鍵がかかっていて、「チェックイン前の荷物の預かりはできない」という張り紙が……。
さて、長崎駅に戻ってコインロッカーに入れるのもしんどいなあと悩んでいた時、ちょうど旅館の人が出てきた。頼み込んですぐにチェックインさせてもらって、部屋に荷物を置くことができた。
これから、いよいよ長崎・和華蘭の旅のスタートである。
長崎さるく1日目「和」 長崎奉行所立山役所跡
長崎歴史文化博物館(長崎奉行所立山役所跡)
「和みの宿おりがみ」から長崎歴史文化博物館は徒歩3分ぐらいだ。長崎歴史文化博物館は長崎奉行所立山役所があった場所に建てられており、その一部が復元されている。以前、復元された「箱館奉行所」を見ているので、今度は復元された「長崎奉行所」を見ることができてよかった。
そもそも私は、建築当時の姿で再現されたものが好きなのだ。もちろん古いものが現存するというのも魅力的だが、当時の人々が見たものが現代の技術で復元されるということにより強く惹かれる。
長崎歴史文化博物館の常設展示は、「歴史文化展示ゾーン」と「長崎奉行所ゾーン」に分けられる。案内に従い、「歴史文化展示ゾーン」をざっくり見学したあと、期待していた「長崎奉行所ゾーン」をじっくりと見て回ることにする。まず、「立山役所の復元」というパネル展示から見学する。
復元された立山役所の玄関から入り、積荷を大改(検分)する際に使用された「対面所・次之間・使者之間」、裁判を行った「御白洲」、応接間にあたる「書院・書院次之間」を見学。縁側の「厠」も当時のまま復元されている。
『わかる!和華蘭 新長崎市史』(長崎市史編纂委員会監修、株式会社長崎新聞社発行、2015年)には次のように書かれている。
江戸幕府は、長崎を天領とし、慶長8年(1603)長崎奉行に旗本小笠原一庵を、長崎代官に村山等安をそれぞれ任命した。
この時期の長崎奉行は、内町23ヵ所支配したが、貿易の監督が主な職務で、貿易に駐在した。
そこで、長崎代官は外町43ヵ所(後に54ヵ所)他郷村地の支配にあたったが、長崎奉行は、後に権限を増大、元禄12(1619)以降は内町・外町の全部を支配した。
長崎歴史文化博物館内のレストラン「銀嶺」で、勧められていた長崎名物の「トルコライス」をいただいた。
鎮西大社諏訪神社・長崎公園
長崎歴史文化博物館から徒歩3分、長い階段を登って鎮西大社諏訪神社を参拝。長崎では「おすわさん」と呼ばれて親しまれ、10月の例祭は「長崎くんち」として知られている。
諏訪神社境内には、大正時代を代表する建築物で旅館として経営されていた「諏訪荘」が移築、奉納されている。諏訪神社に隣接する「長崎公園」を散策。日本最古といわれる噴水や、本木昌造翁像がある。
思案橋・丸山花街
諏訪神社電停から思案橋電停まで移動。坂本龍馬像のある「丸山公園」を起点に、「史跡料亭花月」、「長崎検番」、「梅園身代り天満宮」、「中の茶屋」、「料亭青柳」をめぐってぐるりと一周し、再び丸山公園に戻る。丸山花街は、江戸の吉原、京都の島原に並んで日本三大遊郭といわれる。
まだ夕食の時間には早すぎた。思案橋の「康楽」は、開店時間の6時まで1時間以上あるのであきらめた。西浜町電停で下車してみたが、「群来軒」は定休日だった。どうしても「長崎ちゃんぽん」をいただきたかったので、長崎駅構内の「かもめ市場」にある「蘇州林」で食べることにした。
長崎駅から「和みの宿おりがみ」に戻ってきた。この旅館は、2階のカフェが受付になっていて、カフェの営業時間外は誰もいなくなる。入り口と部屋ふたつの鍵を渡されていた。
部屋は8畳の綺麗な和室で、床の間と2畳の縁側がある。バス、トイレが別になっている。広々としていてくつろげる空間である。
このあと、稲佐山展望台から「長崎の夜景」を見ようと思っていた。長崎の夜景は、上海、モナコとともに、世界新三大夜景に選ばれている。だが、ちょっと疲れていたので取りやめることにした。
旅館の部屋でくつろぎながら、YouTubeで、いろいろな「長崎の夜景」の動画を見ることにした。iPhoneで見るので画面は小さいが、旅館のWi-Fiが使えるので、じっくりと楽しむことができた。
長崎さるく2日目「華」 長崎唐人屋敷跡
長崎唐人屋敷跡
路面電車の新地中華街電停で降り、朝の新地中華街を通り抜ける。毎年2月に開催される長崎ランタンフェスティバルのメイン会場になる「湊公園」から左に曲がると、道路の両側の歩道に「唐人屋敷象徴門(誘導門)」が建っている。さらに進むと、道路を跨いで「唐人屋敷象徴門(大門)」がある。
出島と唐人屋敷は同等の価値を持つ歴史遺産である。オランダ貿易が注目されるが、中国との貿易の方が質量ともに上回っている。
唐人屋敷は、密貿易を取り締まるため、長崎村十善寺郷(館内町)の薬草園跡に造成されたもので、元禄元年(1688)に着工、同2年に完成した。
唐人屋敷の構造は、その機能から大きく、中国人の居住スペースである二ノ門から内側の区域、大門と二ノ門と間の区域、周囲の練塀と竹矢来(竹で組んだ囲い)の間の区域と三つに分けられた。
長崎歴史文化博物館には復元模型が展示されているので、大体の全体像を見ることができる。復元模型も大好きである。
現存する土神堂・天后堂・観音堂をめぐる。これらは三堂ともに市指定史跡に指定されている。
まず見えてくるのが土神堂。生活を守ってくれるという土神(土地の神)を祀っている。1691(元禄4)年の創建だが、解体と再建を繰り返し、石橋だけが残っていたが1977(昭和52)年に復元された。
唐人屋敷があった時代と同じ趣のある坂道を上がる。途中にある「十善寺地区まちづくり情報センター」と「蔵の資料館」には、地域の施設だと思い込んでいて、前を通りながら立ち寄らなかった。せめて「唐人屋敷資料館」という名称だったら見逃すことはなかったのに。ちょっと悔やんでいる。
あとで調べたら、「蔵の資料館」には唐人屋敷の歴史、貿易、生活などの資料が展示されているという。また「十善寺地区まちづくり情報センター」では中国文化の体験ができるとのことである。
唐人屋敷の南西にある天后堂は、航海の安全を祈願し、天后聖母(媽祖)を祀っている。1736(元文元)年に創建され、1906(明治39)年に改築された。
今度は東に進み、細い坂道を上ると、アーチ型の石門が見えてくる。観音堂は、観世音菩薩と関帝が祀られている。逆光になってしまい、写真を撮るのが難しい。1737(元文2)に建立されたと想定され、1787(天明7)年に再建されたものを1917(大正6)年に改築された。
観音堂から少し南に行くと遺構広場があり、四隅モニュメント(南東)と、空堀跡や再現された練塀を見ることができる。
もうひとつ、唐人屋敷廃止後の1897(明治30)年に建てられた「福建会館」がある。原爆の影響で本堂は倒壊してしまい、正門と天后堂のみが現存している。中庭には孫文の銅像が建てられている。
長崎孔子廟・中国歴代博物館
新地中華街電停に戻り、路面電車で石橋電停へ向かう。
長崎孔子廟は1893(明治26)年に清朝政府と在日華僑が協力して建てた日本で唯一の本格的な中国様式の孔子廟である。儀門(正門)から入ると、両側に七十二賢人の石像が並び、さらに両廡の壁には大理石に彫られた論語の全文が掲示されている。圧巻である。
孔子座像が祀られた大成殿の奥には、1983年に新設された中国歴代博物館がある。博物館2階は中国の一級文物の特別展示室、3階は長崎孔子廟に関わる史料の展示室となっている。
崇福寺
石橋電停から新地中華街電停で乗り換えて崇福寺電停へ。路面電車を乗りまくっている。
崇福寺は、1629(寛永6)年の創建で、明末清初の建築様式をそのまま輸入したもので、わが国では他に類例がない。寺に架けられている扁額・柱聯は渡来してきた唐僧の墨蹟だ。
三門、第一峰門(国宝)を通り、崇福寺の本堂・大雄宝殿(国宝)がある。ここで入場料を賽銭箱に投入する。大雄宝殿の向かいには護法堂、隣には媽祖堂門、奥に媽祖堂がある。大釜がひときわ目を引く。
午後の予定が決まっているので、昼食の時間を取ることができない。西浜町にある「だしぼんず」という店で「五島うどん」を食べたかったが、あきらめてコンビニで買ったサンドイッチで簡単に済ませることにした。
近現代編① 長崎みなとめぐり遊覧船・軍艦島クルーズ
午後からは近現代編①として、長崎みなとめぐり遊覧船・軍艦島クルーズ。海上から「三菱長崎造船所」などを見ながら進む。
いよいよ軍艦島こと「端島」に上陸。3ヶ所の見学広場でガイドさんの説明を聞く。
近現代編② 長崎原爆資料館・爆心地公園・平和公園
さらに近現代編②として、長崎原爆資料館・爆心地公園・平和公園を巡った。中学校の修学旅行で平和祈念像の前で記念写真を撮って以来、54年ぶりの訪問である。
夕食は、昨日狙いをつけていた「かもめ市場」内の「みのりカフェ」で、「長崎和牛のレモンステーキ丼」にしようか「長崎県産天然鯛の天丼」にしようか迷った末、「長崎県産天然鯛の天丼」をいただくことにした。決め手は値段である。
長崎さるく3日目『蘭』 長崎出島和蘭商館跡
長崎出島和蘭商館跡
旅館をチェックアウトし、長崎駅のコインロッカーに荷物を預けてから、路面電車で出島電停に向かう。ここから歩いて5分ほど、出島の「水門」のところを曲がり、「表門」に到着。
出島は、寛永13年(1636)に2年の歳月をかけて築造された扇形の人工の島で、その築造の目的は、ポルトガル人を居住させ、厳重な監視のもとに置くためであった。
寛永16年ポルトガル貿易が禁止されると、同18年平戸からオランダ商館が移転、以後、安政6年(1859)までの約218年間、出島にオランダ商館が置かれ、わが国の近代化に大きく貢献した。
出島の復元整備事業は、1951(昭和26)年から始まった。第一期(2000年)、第二期(2006年)、第三期(2016年)と、復元整備が進んでいる。最終的には、四方に水面を確保し、19世紀初めの扇形へと完全復元をめざしている。
出島和蘭商館跡に復元された建物で一番大きい「カピタン部屋」は、カピタン(キャプテン、商館長)の事務所兼住宅だ。1階は展示室、2階にはクリスマスを祝う宴の席が再現されている。
ヘトル(商館長次席)の住居「ヘトル部屋」は、1階がミュージアムショップ、2階は着物レンタルの受付になっている。復元した建物を利用しているのである。この裏手には商館員の食事を調理していた「料理部屋」がある。
「一番船船頭部屋」はオランダ船船長や商館員の住居で、1階は倉庫として使用された土間、2階は居室が再現されている。その並びに、輸入品である砂糖を保管していた「一番蔵」「二番蔵」「三番蔵」、さらに向かい側には「十四番蔵」「十六番蔵」があり、それぞれが展示室になっている。
「拝礼筆者蘭人部屋」はオランダ人書記長の住居で、蘭学を紹介する展示室として使われている。「筆者蘭人部屋」は数人の書記役の住居で、貿易・文化交流を紹介する展示室となっている。
日本側の施設として、貿易事務や管理を担当する出島乙名の「乙名部屋」、出島の出入りを監視する「乙名詰所」、輸出品である銅の計量・梱包をしていた「組頭部屋」と「銅蔵」が復元されている。
このほか開国後に建てられた石造倉庫も復元されている。「旧石倉」は考古館、「新石倉」は総合案内所・出島シアターとして利用されている。さらに明治期以降の建物もある。1878(明治11)年に建てられた「旧出島神学校」は現存する日本最古のキリスト教プロテスタントの神学校、1903(明治36)年に建てられた「旧長崎内外倶楽部」は現在レストランとして使用されている。
シーボルト宅跡・長崎シーボルト記念館
7分ほど歩いてメディカルセンター電停へ。路面電車に乗り新中川町電停まで移動。そこから10分ほど歩いて「シーボルト宅跡」に辿り着く。シーボルトが医学を教えた私塾「鳴滝塾」の跡で、シーボルトの鏡像が建てられている。
この隣接地には、オランダ・ライデン市のシーボルト旧宅をイメージした赤煉瓦洋館の「長崎シーボルト記念館」があり、日本での業績が紹介されている。
大浦天主堂・キリシタン博物館
新中川町電停から大浦天主堂電停まで路面電車に乗る。
「大浦天主堂」は1864年の創建で、正式には「日本二十六聖殉教者聖堂」という。1597年に殉教した26人が、1862年に聖人に列せられたのを受けて捧げられた教会だ。
史跡内にある「旧羅典神学校」および「旧長崎大司教館」は「大浦天主堂キリシタン博物館」として開設されていて、日本キリシタン史に関する展示が行われている。
近現代編③ グラバー園・旧グラバー邸
この日も昼食の時間がしっかり取ることができなかった。
近現代編③として、グラバー園に入る。時間の関係で旧グラバー邸のみを見学。こちらも中学校の修学旅行以来である。三浦環像の前で撮った54年前の記念写真が残っている。
長崎駅前から高速バスで長崎空港に向かう。JAL614便で羽田空港へ。途中、頭を雲の上に出した富士山が見えた。