2020年08月07日

「和字書体三十六景」のものがたり3

和字書体三十六景・第3集(2005年)

『タイポグラフィ・ジャーナル ヴィネット』はそれまでの単著のスタイルから『タイポグラフィ・カレイドスコープ 文字の万華鏡』という複数の執筆者によるスタイルに刷新された。第三弾として企画していたものは断念せざるを得なくなった。
それでも『タイポグラフィ・カレイドスコープ 文字の万華鏡』の第2号(2005年9月発行)に「和字書体—限りなき前進」という文章を掲載させていただき、簡単ではあるが次の9書体の紹介をすることができた。

【さきがけ】
『仮字本末』(伴信友、三書堂、1750年)を原資料として制作した。伴信友(1773年–1846年)は江戸後期の国学者で、歴史の研究、古典の考証にすぐれた業績を残している。本居宣長の著書を読んで感激し入門を決意したが、入門の願いがとどいたのは宣長が亡くなったあとのことだったという。
【ふみて】
内田嘉一(晋斎、1846年–1899年)は慶応義塾に入門し、福沢諭吉の信頼を得た。『啓蒙手習之文』(福沢諭吉著、慶応義塾、1871年)の版下を内田が担当した。ひらがなが1ページに2文字ずつ大きく書かれ、カタカナが1ページにまとめて書かれている。「文字は分明でありたい」という福沢の考えを実践したものだ。
【しおり】
井上千圃(高太郎、1872年–1940年)は、大正時代の後半から国定教科書の木版の版下を引き受けており、文部省(現在の文部科学省)活字の版下も依頼された。この活字が使用された『小學國語讀本 巻八』(文部省、1939年、東京書籍)を原資料として制作した。のちに「教科書楷書体」「教科書体」とよばれるようになった書体である。
【さおとめ】
西澤之助(1848年–1929年)が創立した国光社は伝統的な女子教育の雑誌 『女鑑』 で知られるが、多くの教科書を発行している大手教科書会社でもあった。『尋常小學國語讀本 修正四版』(国光社、1901年)には、吉田晩稼(香竹、1830年–1907年)が版下を書いたといわれる活字書体で組まれている。
【まどか】
『富多無可思』(青山進行堂活版製造所、1909年)の青山安吉(1865年–1926年)による「自叙」は四号楷書体活字、竹村塘舟による「跋」は四号明朝体活字で組まれているが、その和字書体は共通している。東京築地活版製造所の四号活字書体と同系統だと思われる。
【ほくと】
太平洋戦争後の1946年(昭和21年)から1950年(昭和25年)までの約四年間、北海道では札幌市を中心として出版ブームがおこった。『新考北海道史』(北方書院、1950年)もその1冊である。印刷は興国印刷。この本の「序」と「まえがき」にもちいられた活字を復刻した。
【うぐいす】
太平洋戦争後には連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の一連の新聞解放政策によって、全国各地で数多くの新聞が生まれた。これらは「新興紙」といわれ、その数は1,000紙以上といわれている。朝日新聞系の『九州タイムズ』(九州タイムズ社、1946年4月14日付)の活字書体をベースにして制作した。
【いしぶみ】
明治時代にも建碑は盛況で、名だたる書家が携わり字彫専門の石工もあらわれた。落合直澄〔なおずみ〕(1840年–1891年)の顕彰碑である「槙舎落合大人之碑」(1891年頃、雑司ヶ谷霊園)の揮毫は華族女学校教科事業嘱託・阪正臣〔ばんまさおみ〕(1855年–1931年)の手になる。
【くろふね】
大正時代に謄写版印刷で、草間京平(1902年–1971年)によって考案された「沿溝書体」によって、書写のゴシック体が確立したといえる。山形謄写印刷資料館で『沿溝書体スタイルブック』(日本孔版文化の会、1942年)を借りることができたので、この字様からデジタルタイプ化していった。

2020年08月08日

「和字書体三十六景」のものがたり4

和字書体三十六景・第4集(2008年)

2007年、タイポグラフィ学会が設立された。初代会長は佐藤淳さん(京都造形芸術大学教授)、事務局長は河野三男さん。事務局は京都造形芸術大学に置かれた。私も河野三男さんに誘われて、設立発起人として加わり、2010年に諸般の都合で退会するまでの4年間所属していた。
おもな活動としては、『タイポグラフィ学会誌01』(タイポグラフィ学会、2007年)所収の研究ノート「和字書体の書体分類と展開」がある。論文を書くような立場ではなかったのだが、タイポグラフィ学会が発足して最初の学会誌だったこともあり記念として書いたものだった。
和字書体分類の私案は、この研究ノートが基本となっている。そこでは、黎明本様体・明治本様体・昭和本様体・豊満本様体という漢字表記を提案した。この分類が、現在の和字書体設計の基本的な考えとなった。
この研究ノートを書いた時点では、和字書体第1集(2002年)と和字書体第2集(2003年)、和字書体第3集(2005年)がすでに販売されていた。この後、研究ノートで示したカテゴリーを補填して網羅するために、第4集(2008年)を制作、その後もファミリー化などを進めた。デジタルタイプとして再生した和字書体が36書体になったので、葛飾北斎の『富嶽三十六景』から「和字書体三十六景」となづけた。
『富嶽三十六景』は、1831年(天保2年)頃から出版されたものだ。このシリーズは、歌川広重の『東海道五拾三次』のように名所絵として制作販売されたものではない。富士山のさまざまな条件で異なる山容の表情に、最大の興味が注がれているようだ。「和字書体三十六景」も和字書体のさまざまな形象を選び出しているということでは『富嶽三十六景』と共通すると思っている。漢字書体は歴史別に分類しているが、和字書体は景色だととらえている。
漢字書体との組み合わせは、参考・推奨書体はあるのだが、すでに展開している多様な書体のなかから、「和字・欧字・漢字」の組み合わせの妙を発揮されることを期待している。名著を飾った伝統のたかみにある和字書体が現代に甦り、あらたな伝統がうまれる契機となることを願っている。
和字書体の分類案はその後、和字書体には和語の表記が望ましいのではないかと考え、『アイデア349』(誠文堂新光社、2011年)の「今田欣一の書体設計 和字と漢字」では、めばえ・いぶき・さかえ・ゆたかという名称を使っている。私としてはこれを推したいのだが、残念ながら浸透しなかった。
『欣喜堂ふたむかし』(有限会社今田欣一デザイン室、2017年)の「和字書体のすがたカタチ 近代編」では、和字ドーンスタイル、和字オールドスタイル、和字ニュースタイル、和字モダンスタイルという表記を使っている。講演会ということもあり、現状で最もなじみのある言い方に戻した。
ただ、その分類基準が変わっているわけではなく、名称が和語ひらがな表記、漢字表記、外来語カタカナ表記になっているだけである。当面はこのみっつを併用していくことにしている。

【もとい】【もとおり】
『字音假字用格』(本居宣長、錢屋利兵衞ほか、1776年)は、日本に伝来した漢字の字音に、いかなる和字をあてるのが正しいのかを、古文献の用例にもとづいて決定したものだ。この書物は漢字カタカナ交じり文で書かれているが、表記に関する説明には、ひらがなが交じっている。
※原資料に基づいて「もとい」を制作したが、さらに深化させて「もとおり」として再構築させた。
【さよひめ】
室町時代から江戸初期に流行した物語類は御伽草子あるいは室町物語ともいわれるが、その一部は挿絵入りの短編物語の「奈良絵本」の形で伝来している。『さよひめ』(作者不詳、室町後期?、奈良絵本)の物語は浄瑠璃でもよくしられている。
【いけはら】
本木昌造の新街活版所で印刷された『長崎新聞 第四號』(新街活版所、1873年)にもちいられた活字の版下を揮毫したのが池原香穉(1830年–1884年)だといわれている。池原は26歳で眼科医を開業、本木昌造とは長崎の歌壇の仲間であった。薩摩藩の重野安繹が上海より輸入しながら放置されていた活字と印刷機を本木昌造に紹介したということからも、活字や印刷にも関心を寄せていたことがうかがえる。
【ひさなが】
江川活版製造所は、江川次之進(1851年-1912年)が創立した。1886年(明治19年)に著名な書家の久永其頴(多三郎)に版下の揮毫を依頼した。この行書体活字は1895年(明治28年)に青山進行堂活版製造所によっても母型が製造され市販されている。
【ゆかわ】
湯川梧窓(享 1856年–1924年)は大阪で生まれた。幼時から書を学び、村田海石と並び称されたそうである。湯川梧窓が版下を制作した南海堂行書体活字には、二号から五号までの各シリーズがあるが、なかでも三号活字がもっとも整っている。青山進行堂活版製造所では、さらには湯川梧窓の版下による南海堂隷書体活字、南海堂草書体活字が発売されている。
【まなぶ】
発行兼印刷者の吉川半七は貸本業を営んでいた近江屋嘉兵衛の養子になり、1870年(明治3年)に近江屋半七書店を開業した。1887年(明治20年)に出版専業となっている。『国文中学読本』(吉川半七、1892年)の本文字様から活字書体化した。吉川弘文館の名称は没後の1904年(明治37年)になってから使用されている。
【くらもち】
『活版見本』(東京築地活版製造所、1903年)は、わが国の活字版印刷史上最大規模の438ページにもおよぶ見本帳で、第五代目社長野村宗十郎(1857年–1925年)のときに発行された。この見本帳に掲載された「五号二分ノ一ゴチックひらがな」は、和字ゴシック体として見本帳に登場した最初期の書体であろう。
【みなみ】
活字鋳造会社「津田三省堂」は1909年(明治42年)に名古屋で創業された。『本邦活版開拓者の苦心』(津田三省堂、1934年)は昭和9年に私家版として発行されたものだ。津田三省堂は宋朝体の成功によって一世を風靡したが、その宋朝体に組みあわされた和字書体は、彫刻の趣の残った書体である。
【たいら】
『書物の世界』(寿岳文章著、朝日新聞社、1949年)は、京都の内外印刷で印刷・製本され、朝日新聞社から発行されている。欧文タイポグラフィの基本原理を日本文縦組みへの応用を著した書物である。鮮明な活字組み版と堅牢な造本によって、それを具体化させたもので、記念碑的な書物だといわれている。

『タイポグラフィ学会誌01』(タイポグラフィ学会、2007年)所収の研究ノート「和字書体の書体分類と展開」は『和字書体・漢字書体・欧字書体—継承への思索』に発展させた。
 

2020年08月20日

「KOさきがけ龍爪M」のものがたり1

和字書体「さきがけ」のはなし

江戸時代の木版印刷の字様に興味を持ったのは、カタカナと同じように一字一字が独立したひらがなの成立を知りたいと思ったからである。江戸時代の木版印刷にみられる素朴なイメージの字様を、私は「和字ドーンスタイル」と名付けている。和語で「ひのもとのめばえ」体ということもある。
『仮字本末』をベースにして制作した「さきがけ」は、「和字書体三十六景」第3集(2005年)のなかの1書体として発売された。和字書体三十六景に含まれる『字音假字用格』をベースにした「もとい」、2008年の時点では未制作だった「和字書体十二勝」に含まれる「うえまつ」を制作した。「もとい」「うえまつ」「さきがけ」それぞれに、三者三様の泥臭い書風がある。
同じ和字ドーンスタイルでも幕末の活字書体である「あおい」(和字書体三十六景に含まれる)、さらには和字書体十二勝として制作した「ひふみ」、明治時代初期の活字書体「にしき」(いずれも和字書体十二勝)は比較的柔らかいイメージがある。
和字ドーンスタイルに含まれる「もとい」「うえまつ」「さきがけ」のうち、もっとも標準的な書体は「さきがけ」だろう。「さきがけ」を取り上げることにする。

伴信友(1773年–1846年)の生誕の地、福井県小浜市を訪ねたのは2004年8月、私が50歳になったばかりのときだ。
小浜駅前の観光案内所で地図をもらった。レンタサイクルを勧められたが、そう遠くでもなかったので徒歩で巡ってみることにした。墓は福井県小浜市の発心寺にあった。また、伴信友顕彰碑は、発心寺から佛国寺へ向かう参道の山裾にあった。

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伴信友は江戸後期の国学者である。若狭小浜藩士で、通称を州五郎、号を事負〔ことひ〕という。信友は山岸維智〔これとも〕の子として生まれた。幼くして伴信冨〔のぶまさ〕の養子となり、江戸に出て小浜藩校「講正館」に学んだ。本居宣長の著書を読んで感激して入門を決意したのだが、入門の願いがとどいたのは宣長が亡くなったあとのことだった。
信友は、歴史の研究、古典の考証にすぐれた業績を残しているが、代表作としてあげられるのが『仮字本末』だ。信友の遺稿をその子信近が校訂し、長沢伴雄(1806年–1859年)の序を添えて、江戸・大坂・京都の書肆から刊行された。刊本は上巻之上、上巻之下、下巻、付録の合計四冊からなっており、朝鮮綴で薄紺色無地の表紙がつけられている。
『仮字本末』にあらわれたひらがなの書体は、連綿もみられるものの、カタカナに対応して一字一字が独立したスタイルになっている。もともとの版下は書写されたものと思われるが、彫刻する過程において少しアウトラインの単純化が顕著にみられ、それがやや硬めの印象を受けた。『仮字本末』から、和字書体「さきがけ」を制作することにした。

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『解体新書』の翻訳に関わった中川淳庵、杉田玄白も若狭小浜藩の人だ。小浜公園に隣接する高成寺の境内には「中川淳庵先生之碑」があり、小浜駅近くにある公立小浜病院の正面には「杉田玄白之像」が建っている。
国学の伴信友、蘭学の中川淳庵、杉田玄白ときたら、儒学(陽明学)の中江藤樹も訪ねてみたいと思った。小浜駅からバスでJR湖西線安曇川(あどがわ)駅(滋賀県安曇川町、現在は高島市)へ向かった。安曇川駅前に「近江聖人中江藤樹像」があった。そこから徒歩10分ぐらいの「近江聖人中江藤樹記念館」にも足を伸ばしてみた。

2020年08月21日

「KOさきがけ龍爪M」のものがたり2

漢字書体「龍爪」のはなし(前)

「漢字の歴史」展(1989年2月10日―2月21日)は、東京有楽町アートフォーラムで開催された。主催は大修館書店と朝日新聞社。写研が協賛していたこともあって、私もオープニング・パーティーに出席させていただいた。
熹平石経、開成石経(拓本の写真)などとともに、四川刊本『周礼』(写真)が展示されていた。写真の展示だったので、さほど注目してはいなかった。そのときには、この書体を復刻するということまでは考えもしなかったが、なんとなく気になっていた。図録を買い求めて、ときどき眺めていた。

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あれから10年以上経ったころ、中国における碑刻書体、刊本書体、近代活字書体のなかから24書体を選んで、デジタルタイプとして再生しようと思い立った。そのなかに四川刊本『周礼』から再生した「成都」(のちの「龍爪」)を入れた。もちろん「漢字の歴史」展の図録を資料として、試作したのである。



中国・宋は、後周の節度使(軍職)であった趙匡胤〔ちょうきょういん〕が、後周のあとを承けて960年に建国した。開封〔かいほう〕を都とし、文治主義による君主独裁制を樹立した。1127年、金の侵入により江南に移り、都を臨安に置いたので、それ以前を北宋といい、1279年に元に滅ぼされるまでを南宋という。
宋朝体は、中国の宋代の木版印刷にみられる書体である。唐代に勃興した印刷事業は宋代にいたって最高潮に達していた。浙江、四川、福建が宋代における印刷事業の三大産地であり、それぞれが独自の宋朝体をうみだした。唐代の能書家の書風は宋代の印刷書体として実を結んだのである。

[四川刊本]
成都は四川盆地の西部に位置し、古くから交通・経済の要衝だったという。成都のある四川地方は木版印刷術の発祥地のひとつで、唐代からの技術の蓄積があり、宋代においてもその技術が引き継がれた。北宋と金と間の戦争でも四川地方は戦禍をまぬがれたので、南宋による官刊本の復興に大きな貢献をはたした。
四川刊本の特徴は文字サイズが大きいことで知られており、「蜀大字」とよばれている。四川地方の刊本は、中唐の顔真卿(709年–785年)書風による字様だといわれる。『周礼』は中国の儒教教典のひとつで、周王朝の官制を天地春夏秋冬の六官に分けて記述したものである。
欣喜堂では、この四川刊本『周礼』の字様をベースにして、「龍爪」という宋朝体を制作した。

[福建刊本]
中国・福建省の北部にある建陽と建安(現在の建甌)は、山間部に位置しているために版木の材料も豊富であり、製紙業も発達していたので紙の供給も十分にあり、出版業に向く条件に恵まれていた。福建刊本は種類も豊富で、出版部数も多く、流通範囲も広いものだった。
建陽の麻沙鎮、崇化鎮の二地区にあった書坊は「図書の府」ともよばれていた。麻沙鎮で出版された書物は、質の点においての評判はよいものではなかったが、すべてがそうであったわけではなく、良品も数多く出版されていた。
漢の河上公〔かじょうこう〕による『音註河上公老子道経』は良品のひとつである。福建刊本の特徴は、割注が多いということがあげられる。福建地方の刊本は晩唐の柳公権(778年–865年)書風による字様だといわれている。
欣喜堂では、この『音註河上公老子道経』の字様をベースにして、「麻沙」という宋朝体を試作した。

[浙江刊本]
南宋の都、臨安(現在の杭州)には多くの書坊が建ち並んでいた。国力の衰えた時期にも、臨安の街ではまだ活発な商業活動が行われていた。そのなかでも、陳起の陳宅書籍鋪が刊行した書物は注目をあびた。
陳宅書籍舗が臨安城中の棚北大街にあったことから、その刊行物を臨安書棚本という。陳宅書籍鋪では、整然として硬質な字様を完成させた。詩の選集を多数刊行したことで知られる。また、陳起は才能に恵まれながらも無名だった民間の詩人たちと親交を結び、『南宋羣賢小集』を編纂、刊行した。
欣喜堂では、陳宅書籍舗の臨安書棚本字様をベースにして、「陳起」という宋朝体を制作した。

和字書体「さきがけ」に組み合わせる漢字書体については、使う人が自由に選べるということで制作していた。ところが漢字書体の選択肢が少ないうえに、合成フォントで使う面倒さも問題になっていた。そこであらかじめ組み合わせて使用できる漢字書体を制作することにした。その候補は中国・宋代の代表的な刊本字様(四川・福建・浙江)のうちからひとつを選び出すことにした。
「さきがけ」との組み合わせを前提として制作しようと考えた時、試作したみっつの宋朝体、「龍爪」「麻沙」「陳起」のうちでは四川刊本字様の「龍爪」が「さきがけ」といちばんよくマッチするように思えた。

2020年08月22日

「KOさきがけ龍爪M」のものがたり3

漢字書体「龍爪」のはなし(後)

「静嘉堂文庫の古典籍 第五回 中国の版本―宋代から清代まで―」(2005年2月19日–3月21日)という展示が静嘉堂文庫美術館で開催された。
私が訪れた展示前期(2月19日–3月6日)には、南監本『南斉書』や『欽定古今図書集成』などが展示されていた。私は見逃してしまったが、展示後期には藩本『楽律全書』や毛氏汲古閣『殊玉詞』(『宋名家詞』のうち)などが展示されていたようだ。
前期・後期を通じて展示されていたのが四川刊本『周礼』であった。「漢字の歴史」展から16年ぶりの再会であった。しかも今度は実物である。来場者が少ない時間帯だったので、ガラス越しではあるが、ずっと立ち止まってじっくりと見ることができた。
実物を見て、あらためて四川刊本『周礼』の魅力が増してきた。とくに「竜の爪」といわれる収筆部の強さ。再会をきっかけとして、この書体を商品化しようと強く思った。

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書体の名称は書体のコンセプトにかかわるものなので重視している。二転三転することも多い。当初「成都」と呼んでいたのを「竜爪(のちに龍爪)」と変更した。「成都」(仮称)は、原資料である四川刊本『周礼』の出版地からとったのだが、書体のイメージとは違う気がしてきた。
そこで、四川刊本の字様が、収筆部の形状から「竜爪体」といわれているので、そのまま「竜爪」とした。True TypeのリゾルバブルFONDリソースIDは「KRかもめ竜爪M」「KRさきがけ竜爪M」「KRもとい竜爪M」で登録した。(「KR」というのはTrue Typeの識別のためにつけたものでOpen Typeは「KO」である)
ところが販売代理店の朗文堂から注文がついた。「竜爪」(リュウソウ)は読めないので、販売するのが難しいとのことである。かくして朗文堂で作成されるCDジャケットやブックレットの「竜爪」(リュウソウ)には、ふりがなが付けるということになった。
これで一件落着だと思いきや、ファクシミリで送られてきたCDジャケットのデザインには、「竜爪」ではなく、「龍爪」と書かれていた。リゾルバブルFONDリソースIDは登録していたのでちょっと困惑した。
だが、「龍爪」のほうがかっこいいし、字体が違うだけだし、人名用漢字だし、JIS第一水準だし、繁体字では「龍爪」になるのだし、もう面倒になってしまって、そのまま「龍爪」を受け入れることにした。結果的に、これでよかったと思っている。