2020年09月29日

[本と旅と]松尾芭蕉の山形路を辿る(2004年)

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橋本治『橋本治のおくのほそ道』とともに

弟が山形へ転勤になったので、母が一度行ってみたいと言い出した。私もそれに便乗して付き合うことにした。
2004(平成16年)年5月28日、金曜日。東京駅で母と待ち合わせて、東北・山形新幹線で山形駅へ。弟が出迎えてくれた。駅前から路線バスで、弟が予約してくれていた中桜田温泉「ウェルサンピア山形」(山形厚生年金休暇センター)に向かう。

立石寺

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5月29日(土)朝、山形駅からJR仙山線に乗車し20分ほどで山寺駅へ。そこから徒歩で宝珠山立石寺、通称山寺へ。弟が山寺観光ガイドの方を予約してくれていて、根本中堂の前あたりで落ち合う。
根本中堂は立石寺という御山全体の寺院の本堂に当たる御堂である。堂内では、本尊として慈覚大師作と伝えられる木造薬師如来坐像をお祀りし、脇侍として日光・月光両菩薩と十二支天、その左右に文殊菩薩と毘沙門天を拝することができる。
まずは松尾芭蕉像と句碑の説明と記念撮影からスタート。『橋本治のおくのほそ道』(橋本治著、講談社、2001年)の現代語訳では、次のようになっている。

二十八 立石寺

山形領に立石寺という山寺がある。慈覚大師が開かれた寺で、とりわけすがすがしい場所だから、ぜひ、見にいくように人々がすすめてくれた。そこで、尾花沢から七里ほどもどった。
日暮れにはまだ時間があったので、ふもとの宿坊に泊まる手はずをしておいて、山の上の僧堂まで登った。山は大きな岩を積み重ねたような形で、松、杉、柏など常緑の老木が生いしげり、地面にも石にもびっしりと苔がつき、岩の上に建てられたどの寺も扉をしめていて、物音ひとつきこえなかった。
崖から崖へ、岩から岩へとめぐり歩きながらつぎつぎに寺を拝観してまわった。景色はこのうえなく美しく、あたり一帯が静まりかえっていて、心が澄みきっていくのを感じたものである。

閑さや岩にしみ入る蝉の声


ガイド人の説明を聞きながら、山門から始まる長い階段をゆっくりと上がって行く。説明によれば石段の数は800段以上だという。観光客は多いのだが、老木の緑に囲まれて静かだ。
途中、せみ塚というところで休憩。松尾芭蕉に連なる弟子たちがこの地を訪れた時に、芭蕉が句の着想を得た場所だとして、短冊を土台石の下に埋めて、この塚を立てたという。
開山堂は立石寺を開かれた慈覚大師の御堂で、百丈岩の上に立てられている。扉が閉じられているが、大師の木造の尊像が安置されている。隣の赤い小さな御堂は山内で最も古い建物だそうだ。奥之院で写経された法華経が納められている納経堂である。さらに、舞台のような五大堂からは山寺を一望できる。
山内には50余の建物が存在している。説明を聞きながら、さらに上へ上へと進んでいく。73歳になる母も元気に階段を上がる。参道の終点が奥之院。奥之院は通称で、正しくは「如法堂」という。慈覚大師が中国で持ち歩いていたとされる釈迦如来・多宝如来の両尊を御本尊としている。また左側の大仏殿には金色の阿弥陀如来が安置されている。
国指定重要文化財に指定されている三重小塔は、室町時代に建てられた三重塔の遺構で、内部には三重塔の本尊である大日如来像が安置されている。岩窟内に納められているうえに、ガラス格子戸が厳重に張られ、その全容を見ることはできない。
山寺の対岸の小高い丘の上にある「山寺風雅の国」で昼食。すぐそばにある「山寺芭蕉記念館」にも立ち寄る。米倉斉加年主演の映画「おくの細道 百代の過客」などを見たりしてのんびりと過ごす。


最上川

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翌30日(日)、山形駅前から定期観光バス「べにばな号」に乗る。途中、天童・竹内王将堂に立ち寄ったあと、古口港(戸澤藩船番所・乗船手形出札處)に到着。最上川芭蕉ライン舟下りである。
松尾芭蕉も、新庄市本合海から庄内町清川まで最上川を船で下っている。『橋本治のおくのほそ道』では、次のように訳されている。


二十九 最上川

最上川を舟で下ろうと考え、大石田という場所で天気が好転するのを待つことにした。
この地には古い俳諧につながるものが生きていて、本来の面白さをもとめる気持ちを、人々がまだもちつづけてくれている。ほんの片田舎なのに、風雅の道で心をなぐさめもし、足先でいくべき方向をさぐるようにして、いま流行の俳諧に身をよせるか、古来の道を守ろうかとまよっている。だが、こちらがわが正しいのだと教えてやる指導者がいない。そこで、やむをえず、歌仙一巻を巻き、それを残していくことにした。こんどの風流をもとめる旅は、はからずもこんな結果を生み出すことになった。
最上川の源流は陸奥にあり、山形あたりが上流にあたる。その流れには、碁点とか隼とかいう恐ろしい難所がほうぼうにある。それらを通過し、歌枕の地板敷山の北を下って、最後は酒田で海にはいっている。
流域の左右はおおいかぶさってくるほどの山で、木々がはえしげった中を、舟に身をまかせていくのである。その舟に稲を積みこんだのが、古歌に詠まれた稲舟というものなのだろうか。
名高い白糸の滝は、青葉にうまった中を落ちていて、仙人堂は川岸ぎりぎりの場所に建てられている。そんな川を下るのだから、水量が豊かなせいもあって、舟が何度となく転覆しそうな危うい目にあった。

五月雨をあつめて早し最上川


最上川舟下りの最大の魅力は、船頭さんが自慢の美声を披露してくれる「最上川舟唄」である。外国からの観光客も多いのだろう、山形訛りの英語や中国語の舟唄も披露していただいた。船頭さんの方言たっぷりな案内も魅力的である。
源義経一行が奥州藤原家(岩手県平泉)に向かう途中、船で最上川を遡って逃げたという伝説が残っている。義経の馬を休憩させて轡(くつわ)を洗ったとされる「馬爪岩」、弁慶があやしい人影めがけて投げた石がめり込んだという「弁慶の礫(つぶて)石」などがある。最上川舟下りの船上から見えるというが、探しているうちに通り過ぎてよくわからなかった。
おくのほそ道に書かれている白糸の滝、仙人堂も義経ゆかりの地だ。義経の正室、北の方はこの白糸の滝を詠んだ和歌を残している。従者であった海尊(かいそん)を祀ったのが仙人堂である。海尊は一行と別れたあと、山伏修行の後に仙人になったという。


羽黒山

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およそ50分の舟下りのあと、終点の草薙港(最上川リバーポート)で昼食。 午後からは羽黒山に向かう。

三十 羽黒

六月三日、羽黒山に登った。
まず図司左吉という人をたずねていき、その人の引き合わせで、会覚阿闍利におあいした。阿闍利は南谷にある別院に泊めてくださって、なにくれとなく心づかい豊かにもてなしてくれた。
四日、本坊若王寺で俳諧を興行することになった。

ありがたや雪をかをらす南谷

五日、羽黒権現に参詣する。当山の開祖といわれる能除大師はどの時代の人であるか、よくわからない。
延喜式に「羽州里山の神社」という記述が出てくる。書きうつすときに、だれかが「黒」という字を「里山」とまちがったのかもしれないし、羽州黒山だったものを短くして羽黒山とよびだしたとも考えられる。出羽というのは、「鳥の羽毛をこの土地の貢ぎ物として朝廷におくった」と風土記にあるというから、そこから出た国名なのだろうか。この羽黒山に月山、湯殿山を合わせて出羽三山とよぶのだ。
この寺は江戸の東叡山寛永寺に属していて、天台宗の教義である止観は月のように明らかに輝いている。円頓融通の天台の伝統にしたがう天台宗の流れはますます盛んで、僧坊も棟を並べるように建ちならび、修験道にいそしむ者は、たがいに励ましあいながら守りつづけている。この霊山霊地のありがたい力を、人々はたいせつにしているばかりではなく、心からおそれてもいるのだ。そのようなありさまだから、この地の繁栄は永遠につづくだろうし、このうえなくたいせつな山だというべきだと思える。


国の重要文化財に指定されている三神合祭殿(さんじんごうさいでん)。月山・羽黒山・湯殿山の三神が合祀されている。月山・湯殿山は遠く山頂や渓谷にあり、冬季の参拝や祭典を執行することができないので、三山の祭典は全て羽黒山頂の合祭殿で行われるのだ。
合祭殿造りとも称される独特の社殿萱葺きの豪壮な建物で、一般神社建築とは異なり、一棟の内に拝殿と御本殿とが造られている。建設当時は赤松脂塗だったが、昭和45年から塗替修復工事が行われ、現在は朱塗りの社殿となっている。
一の坂の登り口、そそり立つ杉小立の間に、五重塔だけが、素木造り、柿葺、三間五層の優美な姿で建っている。ポツンと、というより、どっしりと。国宝である。付近にはもともと多くの寺院があったというが、今は何もない
継子坂を下りると、祓川(はらいがわ)に掛かる神橋に出る。神橋は、向かいの懸崖から落ちる須賀(すが)の滝と相対している。須賀だけにすがすがしい。月山の山麓、水呑沢より引水して祓川の懸崖に落したのだそうだ。
新庄駅に戻る。駅前から送迎の車で、この日の宿泊先である大堀温泉「国民年金健康保養センターもがみ」に。田園のなか建てられた、まさに保養するというイメージそのものの施設であった。


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2020年09月30日

[本と旅と]織田信長の安土城をゆく(2005年)

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山本兼一『火天の城』とともに

山本兼一の『火天の城』は、織田信長から近江安土に「天高くそびえ立つ天下一の城を作れ」と命ぜられた尾張熱田の宮大工・岡部又右衛門が、安土城を完成させるまでを描いた小説である。


安土セミナリヨ跡

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2005年8月、私はJR安土駅に降り立った。駅前の安土観光レンタサイクル(ふかお)から声がかかった。電動アシスト自転車を勧められた。サイクリングのモデルコースの資料にマーカーで印をつけながら、案内してくれた。せっかくなので、このコースに従っていくことにしよう。
はじめて電動アシスト自転車に乗ったが、これはいい。ぐんぐん進む。まず、めざしたのは安土セミナリヨ跡である。数分で到着した。
イエズス会巡察師ヴァリニャーノは、日本人の司祭・修道士を育成することが日本布教の成功の鍵を握るとみていた。宣教師に対して好意的であった織田信長の許しを得て、安土城下に神学校(セミナリヨ)のための土地を譲り受けた。1580(天正8)年、宣教師オルガンティーノによって日本最初のセミナリヨが建てられた。
『火天の城』では、京都の教会の建て直しについて、設計を担当するオルガンティーノと、施工を担当する大工たちとのやりとりの様子が次のように描かれている。これが安土のセミナリヨの建築へとつながっていくのだろう。

故郷のイタリアにあるようなロマネスク風の建築にしたかったが、半円アーチを使った図面を見せると、大工たちは、即座に「無理だ」と首をふった。
「丸い壁も屋根も、つくったことがないので、できない」
というのである。どんなに説得しても、首を縦にふらなかった。
オルガンティーノは、大工にできる日本建築の範囲で設計と意匠をつくし、できるだけ壮麗な教会堂になるよう工夫した。


安土のセミナリヨは安土城炎上の際に焼失してしまった。現在はその跡地の一部がセミナリヨ史跡公園として整備されている。公園の入り口には「セミナリヨ趾」の碑が建てられている。


安土城大手道・伝羽柴秀吉邸・伝前田利家邸・伝徳川家康邸跡

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百々橋(どどばし)を渡り、右へ曲がって大手道休憩所へ向かう。ここで自転車を置き、石段を登ることにする。大手道だ。
表玄関に当たるのが大手門跡である。大手門の東側に東虎口、西側には西虎口と枡形虎口があった。城の正面に四つの門があるのは当時の城郭では考えられないスケールだそうだ。
大手道は、大手門から天主・本丸に至る大通りである。大手門から山腹まで約180メートルにわたって直線的に延びている。道幅は約6メートル。その両側に幅1メートルの石敷側溝(いしじきそっこう)があり、その外側には高い石塁(せきるい)が築かれている。
『火天の城』には、織田信長が岡部又右衛門たちに大手道について説明するシーンがある。

城の本丸への道は、細く幾重にも折れ曲がらせるのが、常套的な築城術である。攻め寄せた敵を集団のまま城内に入れず、分断して個別に撃破するためだ。信長の発想は、常識を真っ向から否定している。
「これでよい。山頂までに三度曲げれば、防備は充分だ」
「されど、定法とはちがう築城にござれば……」
三間幅のまっすぐな大手道などつくっては、敵をわざわざ歓迎しているようなものだ。
「帝(みかど)のお通りまします道だ。あまりゆがめられもすまい」
「みかど……、帝とおっしゃったか」
驚いてざわめいた一同のなかでも、一番大きな声をあげたのは、岡部又右衛門だった。
「本丸には帝のために、清涼殿を建てよ。内裏(だいり)と同じ間取りにするがよい」
信長のひろい額が、高慢そうに光っている。又右衛門が、膝を打った。


道の左側は伝羽柴秀吉邸跡である。郭(くるわ=造成された平地)が上下2段にわかれた大規模な屋敷で、下段郭の入口には櫓門が、上段郭の入口には高麗門が存在したが、今は案内板があるのみだ。下段郭は馬6頭を飼うことのできる厩(うまや)があり、上段郭には書院造り(しょいんづくり)の主殿を中心に、隅櫓(すみやぐら)など多く建物で構成されていたという。
道の右側には、伝前田利家邸跡である。伝羽柴秀吉邸跡と同じような構造だが、その配置には大きな違いがあり、こちらは複数の郭に分かれている。こちらも案内板があるのみだ。そこから少し上に伝徳川家康邸跡があるが、その地には1932(昭和7)年に摠見寺仮本堂が建てられている。


安土城天主台・本丸・二ノ丸跡

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黒金門(くろがねもん)跡から先が安土城中枢部である。標高が180メートルの安土山の最も高いところにある。東西180メートル、南北100メートルに及ぶ安土城中枢部は高く頑丈な石垣で固められている。建物は全て焼失したため、石垣と礎石によってのみ往時を偲ぶことができる。この石垣は400年以上にわたって崩れることなく、ほぼ原型を保ってきていることに驚かされる。
黒金門から安土城の二の丸跡と進んでいく。二の丸跡は、織田信長本廟が1583年(天正11年)2月に羽柴秀吉によって建立されている。信長の太刀や烏帽子、直垂(ひたたれ)などの遺品が埋葬されているそうだ。
本丸跡も碁盤目状に配置された119個の礎石(そせき)が残るのみである。この礎石の配列状況は、当時の武家住宅に比べて規模と構造の特異性がうかがえる。天皇の住まいである内裏清涼殿と非常によく似ているというのだ。やはり本丸御殿は天皇行幸のために用意された行幸御殿だったのだ。
さらに登っていくと安土城天主台跡(安土城だけは天守ではなく天主と表記する)に到着する。1メートル以上の高さの石垣に囲まれた、東西、南北それぞれ約28メートルの広さである。ここには礎石が1、2メートルおきに整然と並べられている。ここは地下の部分で、この上に地下一階、地上六階の安土城天主が建てられていた。居住空間のある初の高層建築で、信長自身もここ住んでいたのだ。
『火天の城』では、岡部又右衛門が天守台の設計を考える様子を描写している。

——木をどのように組めば、七重の建物が安定して立ち続けるのか。
岐阜で信長に築城を命じられた時から、又右衛門は、ずっとそのことを考えていた。ああでもない、こうでもないと、浮かんでくるいくつもの木組みを、笊(ざる)で篩(ふるい)にかけるように選別し、ひとつの結論に達した。
地下蔵の礎石から四重まで四本の大通柱(おおとおしばしら)を立てる——。それが又右衛門の結論だった。
正方形に配置した大通柱に、一抱えもある太い梁(はり)を、各重でがっしり組み込ませれば、天主の骨格が頑丈にできあがる。


この設計をもとに木組雛形を作って実験をし、材料を調達し、普請(土木工事)と作事(建築工事)を行なって、巨大な安土城を竣工させるまでの悪戦苦闘を感動的に描いている。
安土城天主台跡の石垣に登ってみる。ここからの琵琶湖の眺望は素晴らしい。
帰りは摠見寺道(百々橋道)から降りる。途中、摠見寺本堂跡、摠見寺三重塔、楼門(仁王門)金剛二力士像を巡る。摠見寺は織田信長が安土城築城にあわせて建立した寺院である。こうした寺院が城郭内に建てられているのは安土城だけだ。
モデルコースに従い、サイクリングを続ける。安土城天主信長の館、安土城考古博物館、そして安土町城郭資料館を巡る。安土町城郭資料館には安土城が20分の1のスケールで再現されている。安土城天主信長の館には天主5階、6階が原寸大で復元されている。

安土桃山時代を象徴するもうひとつの城、豊臣秀吉の伏見城跡(現在の明治天皇桃山陵)を訪れたのは2009年8月のことである。

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2020年10月01日

[本と旅と]和気清麻呂と空海と神護寺と(2006年)

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司馬遼太郎『空海の風景』とともに


神護寺に参拝したのは、2006年夏のことである。京都駅からはバスで約50分。清滝川に架かる高雄橋を渡り、参道となる三百数十段の石段を登りきると、楓の木立の中に神護寺の立派な山門が見えてくる。
この山門は、1629年(寛永6年)の建築とされる。三間一戸という形式の楼門で、門の両脇には持国天と増長天が安置されている。まさに古刹という言い方がぴったりくる。


和気清麻呂から弘世へ託した夢

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神護寺は、平安遷都の提唱者であり平安京造営の推進者として知られる和気清麻呂が建立した高雄山寺がその前身である。
山門から入って、右手から山道を進むと和気清麻呂公墓がある。今回の神護寺参拝の目的は、和気町の偉人とされている和気清麻呂公の墓へのお参りである。
司馬遼太郎は『空海の風景』という小説で次のように記している。

清麻呂についてもうすこし触れたい。かれは桓武天皇に重用された。桓武という、独裁性がつよく、仕事ずきなこの人物は、官僚を自分の裁量で自由に選んだめずらしい天皇であったとおもえる。空海の本家とされる佐伯今毛人も桓武によってえらばれ、高齢になって心身が疲れはてるまで使われた。和気清麻呂もそのようにして使われたことをみると、有能な男だったのであろう。佐伯今毛人が建築に長じていたように、和気清麻呂は土木に長じていた。平安京の造宮大夫として造都に活躍し、死んで正三位を贈られた。


清麻呂は実務家だったが、長男の弘世は学問の分野で功績をあげた人なのだろう。
※神護寺のパンフレットでは弘世となっているが、『空海の風景』では広世となっている。

その息子の広世は、その学力をもって文章生から身をおこし、ついにはその医学的教養を買われて典薬頭になり、また儒学の教養によって大学頭を兼ねるところまで進んだ。学問や技術の分野に身を置くということは藤原氏との摩擦をおこさずにすむということもあったのであろう。のち広世の家系は比較的ながくつづくが、多くは典薬頭、典薬助、典薬権助、針博士、女医博士といった官職につき、官医としての系譜を保っている。


清麻呂の姉・和気広虫は宮中で高い地位についた女官で、日本で初めて孤児院を開いた人物ともいわれているが、清麻呂の長男・弘世は日本で最初の私学といわれている弘文院を設置しているのだ。

清麻呂が死んだのは空海のまだ二十代のころだったが、かれの遺志は私立図書館を作ることにあったらしく、長男の広世がこの遺志を実現した。弘文院がそれである。広世の私邸は大学の南側にあったが、広世はその私宅を開放して弘文院とし、蔵書数千巻を置き、維持のために墾田四十町歩をこれに付けた。図書館は学校を兼ねたから、私学としてあるいは最古のものかもしれないが、ただしこの私学は他に開放される性質のものではなく、和気氏の子弟のためのものであったらしく、和気氏から後々までも学問技芸の官僚が出ることを清麻呂が望んでいた証拠のようにもおもえる。


現在の京都市中京区には「弘文院址」の碑が建てられている。


和気弘世と最澄、和気真綱と空海

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山道をもどると、和気公霊廟の前の広場に出る。
清麻呂の子息である弘世、真綱、仲世は、最澄、空海を相次いで高雄山寺に招き、仏教界に新風を吹き込んでいる。
弘世と真綱は、比叡山中にこもって修行を続けていた最澄に、802(延暦21)年、伯母である和気広虫の三周忌の法事供養として高雄山寺での法華経の講演を依頼している。弘世のはからいを得た最澄は、還学生(短期留学生)として唐に学ぶこととなった。
弘世が世を去ったのち、高雄山寺は、弘世の弟の真綱、仲世が外護する空海の時代になった。真綱、仲世は、兄の弘世と同じく、文章生から出発して官吏の道を歩んだ。

「空海の住寺は、高雄山寺がいいだろう」
という案をたてたのは、空海を暗に支持している奈良の僧綱所の高僧たちであると見ねばならない。彼らは、その人事権や立案権をもっていた。空海を都に登らせて叡山の最澄を抑えさせるには地の利を得させねばならず、地勢からみて都の東北にある叡山に匹敵する山と言えば、都の西北にある高雄山が最適ということであった老師、さらに政治的にみて、和気氏を空海の保護者にするのはこの時期、案として巧緻すぎるほどに無難である。


それでは、最澄に対してどのように調整したのであろうか。『空海の風景』にはこのように記されている。

空海のこの時期は、高雄山寺に関する限り、広世の弟の真綱の名前が単独で出てくることをおもえば、広世が死に、真綱が和気氏の代表ということになっていたのであろう。奈良の老僧たちは、真綱に話したに相違ない。真綱はおそらく自ら叡山におもむき、最澄にあって、
——海和尚を、高雄山寺に住まわせたいが。
と、はかったと思われる。


空海の十数年にわたる活躍によって、高雄山寺が平安仏教の道場としての内容を整えてくると、真綱と仲世は、これまでの和気氏の私寺的性格を格上げすることを考え、高雄山寺と同じころに建てられていた定額寺(特定の官寺)としての神願寺を合併することを願い出る。そして824(天長元)年にそれが許され、神願寺がこの地に移されると、寺名も神護国祚真言寺(略して神護寺)と改名され、すべてが空海に付嘱された。
京都の東北にある最澄の比叡山延暦寺はよく知られているが、京都の西北に位置する空海の高雄山神護寺も、それに匹敵する寺ではないかと思う。


神護寺の現在——衰退と再興を経て

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空海の時代の神護寺は、東寺や金剛峯寺に勝るとも劣らぬ地位を維持したことを示していたが、平安末期の神護寺は、大変衰微していた。
これを復興しようという大願を起こしたのが、文覚上人であった。1168(仁安3)年に当寺を訪れた文覚は、さっそく草庵をつくり、薬師堂を建てて本尊を安置し、空海住坊跡である大師堂(納凉殿)、不動堂等を再建した。
その後も衰退と再興を繰り返すことになった。山門から和気公霊廟の前の広場をさらに西に進むと五大堂と毘沙門堂が見える。ともに1623(元和9)年に再建されたといわれ、江戸時代初期の様式を示している。
毘沙門堂の南西にあるのが重要文化財の大師堂である。1168(仁安3)年の再建と伝えられるが、細川忠興が改造して、細部は桃山様式になっている。小さな堂ではあるが、空海の納涼殿ともいわれ、住宅風の建物である。
明治維新とともに廃仏毀釈の弾圧によって、寺領は解体され、消滅してしまった。現在の姿になったのは1930(昭和5)年に清厳老師が入山されてからのことである。
1935(昭和10)年に、大阪の豪商・山口玄洞氏の寄進により、前述の和気公霊廟や、金堂、多宝塔ほかが再興され、旧堂も修復された。金堂は、五大堂と毘沙門堂から石段をすこし上がったところにある。単層屋根入母屋造本瓦葺の、堂々として華やかな、昭和の代表的な仏殿である。そして、1952(昭和27)年に寺領の一部を境内地として政府より返還され、今日に至っている。
金堂、多宝塔まで来たところで、雷鳴とともに、にわか雨が降りだした。急いで山門までもどった。他の参拝客とともに、そこで雨宿りすることにした。
境内最西端の地蔵院の庭からのかわらけ投げと、そこから眺める清滝川の清流がつくる錦雲峡の眺めは観光の名所だというが、そこに行くのは断念した。雨が小降りになったところで、帰途につくことにした。


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2020年10月02日

[本と旅と]東京のランドマーク(2013年)

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津川康雄監修『江戸から東京へ』とともに


東京スカイツリーが2012(平成24)年5月に開業したとき、母が行ってみたいと言い出した。元気とはいえ高齢なので、混雑する開業当初はちょっと無理だろうと思っていた。1年経って、母は82歳になっていたが、やはり行きたいという。今行かなければ、年齢的にもう無理かもしれないと思えてきたので、思い切っていくことにした。
はとバスに「国会議事堂と東京スカイツリー」というコースがあったので、これに参加することにした。東京駅丸の内南口を出発し、皇居・二重橋前・千鳥ヶ淵・半蔵門を周回し、国会議事堂見学。昼食後、東京スカイツリー天望デッキからの展望。車窓から新しくなった歌舞伎座を見ながら、東京駅丸の内南口へ到着するというコースだ。
何かガイドブックのようなものがないかと思っていたところ、偶然に『江戸から東京へ 大都市TOKYOはいかにしてつくられたか?』(津川康雄監修、実業之日本社、2011)という新書を見つけた。国会議事堂、スカイツリー、国技館が取り上げられているので買ってみることにした(※以下『江戸から東京へ』と略す)。


国会議事堂

2013年5月25日。午前9時50分に東京駅丸の内南口を出発。
『江戸から東京へ』では、第1章「大江戸八百八町は世界一の大都市だった」で、まず江戸城跡(現在の皇居)が取り上げられている。皇居前広場や皇居東御苑には以前訪れたことがある。

その構成は、本丸・二の丸・三の丸からなる本城(現・東御苑)と、前将軍の隠居所と後継の居所の西の丸や紅葉山を中心に、それらを取り囲むように吹上、北の丸などがあり、これを内郭といい、幕府の要職にある大名家の屋敷などが置かれた。


皇居を車窓から見ながら、ほぼ時間通りに国会議事堂前に到着。
国会議事堂は1920(大正9)年に着工されたが、関東大震災の影響などもあって、17年の歳月を要して1936(昭和11)年に完成した。『江戸から東京へ』では「第3章 震災の悪夢から立ち直った復興都市」の中で、国会議事堂について記されている。

議事堂の設計にあたっては、外国人の設計は国情に合わない輸入物だとして、邦人に限ってデザイン案が募集された。応募総数118人のなかから宮内省(現・宮内庁)技手の渡邊福三の図案が当選、懸賞金1万円が贈られた。しかし、実際には渡邊の案に大幅な修正が施されたものとなった。渡邊は、当選してわずか5カ月後に急死。当時流行していたスペイン風邪による病死とされる。


かなり長い時間待たされた。母は高齢なので立ったままでいることは心配だった。もちろんベンチなどはないので、仕方なく壁際に腰を下ろすことにした。
やっと担当の職員が来て見学が始まったが、いきなり3階まで階段を上がるという。別コースでエレベーターを使うこともできるが、母は階段で皆さんと一緒に行きたいという。意外と元気に上がっていった。
参議院の傍聴席に到着し、やっと一息つく。傍聴席に座って担当者の説明を聞く。そこから、国会議事堂の内部を巡りながら、階段で降りてゆく。
議事堂の石材は、ほとんどすべてが国産だそうだ。わが国の石材の豊富なコレクションの展示場といえる。柱や壁、階段の手摺りの石材には、各種の化石を見出すことができる。さらにはシャンデリア、ブラケットなどの金工、議長席や演壇、壁面、扉の木彫など、見るものすべてが美術品・工芸品である。

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東京スカイツリー

『江戸から東京へ』では「第4章 敗戦後の高度成長から近代的な都市へ」の中で、東京タワーについて記されている。

そして、高さ333メートルの東京タワーは、新時代のランドマーク——テクノランドマークである。1958(昭和33)年に完成して以来、半世紀以上にわたって東京のシンボルであり続けた。また、高度経済成長の象徴としても新しい日本の象徴としても、東京タワーは、「重層的な意味」を持つランドマークであり続けた。


東京タワーは正式には日本電波塔という。東京タワーが位置する都心部では、超高層建築物が林立して電波が届きにくくなっていたほか、携帯機器向けの放送を快適に視聴できるようにするなどの目的もあって、新しい電波塔が必要になっていた。そして東武鉄道の貨物駅跡地に建設されたのが東京スカイツリーである。
昼食後、車窓からいろいろな方向から眺めながら、東京スカイツリーに近づいてくる。そして、「終章 世界が注目する近代都市TOKYO」で東京スカイツリーを取り上げている。

東京スカイツリーは、東京を象徴する新しいランドマークである。高さは634メートル。ワイヤで吊られるなどしない自立式の電波塔としては、世界一の高さを誇る。建築物全体で見ても、ドバイにある超高層ビル、ブルジュ・ハリファ(高さ828メートル)についで2番目に高い。もちろん、日本一の高さであることは言うまでもない。


東京スカイツリーの天望デッキ(第一展望台)へは、天望シャトルと呼ばれるエレベーターで一気に上がっていく。眼前に地上350mからの展望が開けていく。さらに上にある450mの展望回廊(第二展望台)に行くこともできたが、母には無理をさせられない。出口フロアのスカイツリーショップまで降りて、ゆっくりと買い物をすることにした。

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歌舞伎座を車窓から見た後、東京駅の丸の内南口に到着。


国技館(両国新国技館)

これまで母と帝国劇場で演劇を観たり、歌舞伎座で歌舞伎を観たりということはあったが、スポーツにはそれほど興味がなかったようだ。でも大相撲だったら一度ぐらいは観戦してもいいなということになった。
2013年5月26日。今まで使ったことのない市営の「つるワゴン」で最寄り駅まで行き、駅ではエレベーターを利用しながら、電車を乗り継いで池袋へ。母のリクエストで、昼食は池袋でスパゲティ。さらに電車を乗り継いで、両国駅に到着。

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『江戸から東京へ』の「第2章 文明開化の槌音高く建設された帝都・東京」の中で国技館について記されている。

相撲の歴史は古いが、国技館という興行場の始まりは1909(明治42)年で、本所回向院(えこういん)境内に設けられた。開館の式辞を書いた文士が「相撲は日本の国技」と表現したことをよしとし、翌年には国技館と改称。関東大震災や第二次世界大戦などで被害を受け修復されたが、戦後はアメリカ軍に接収される。
1954(昭和29)年、相撲協会は隅田川の対岸、蔵前につくった体育館様式の国技館に移った。その後、老朽化により新たな建物が必要になり、再び両国へ。駅北側の操車場の跡地だった現在地に新国技館を建設し、1985年1月9日、土俵開きが行なわれた。


大相撲夏場所千秋楽を国技館の上の方の席で観戦する。ちょうど協会御挨拶の前あたりから見ることができた。
母がトイレに行くために席を離れた。戻るときに目の前の入り口から出たのはいいが、席とは反対方向にどんどん歩き始めてしまって慌てた。こちらからは見えていたので、なんとか事なきを得た。
さて、優勝の行方である。13日目まで横綱白鵬と大関稀勢の里が全勝で並んでいた。14日目の直接対決で白鵬が稀勢の里をすくい投げで敗って一歩リードしたが、千秋楽の勝敗次第では優勝決定戦もあるのではと期待していた。
ところが稀勢の里が大関琴奨菊に寄り倒しで敗れて13勝2敗となり、この時点で白鵬の優勝が決まった。白鵬は横綱日馬富士を寄り切りで敗って、優勝を15戦全勝で飾った。

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千秋楽なので、表彰式、出世力士手打式、神送りの儀式まで、テレビでは放送されない行事を、ゆっくりと観ることができた。


posted by 今田欣一 at 19:32| Comment(0) | ★本と旅と[メイン] | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年11月10日

[本と旅と]雨の松阪・国学の道(2016年)

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田中康二著『本居宣長』とともに


2016年2月20日朝、快速みえ1号で松阪へ。

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28年前に訪れたことがあるが、それ以来だ。松阪駅前の観光情報センターで「本居宣長コース・国学の道」というブックレットをもらったので、このルートに従って歩くことにした。冷たい雨が降っている。

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新上屋跡〜本居宣長旧宅跡
松阪駅前から新町通を進んで、日野町交差点にあるカリヨンビルが新上屋(しんじょうや)という旅宿があった場所である。本居宣長が賀茂真淵の宿泊する新上屋を訪ねて対面したことが「松坂の一夜」として知られている。現在は「新上屋跡」の石碑が建てられている。
田中康二著『本居宣長 文学と思想の巨人』(中公文庫、2014)には、次のように記されている。まさに歴史的な場面なのである。

はたして真淵一行は、伊勢神宮からの帰りに再び松坂に立ち寄った。柏屋から真淵来訪の情報を得た宣長は、その夜喜び勇んで真淵の逗留先(新上屋)を訪ねた。馬渕にとって、奈良・京都での調査収集の成果もさることながら、その旅の締めくくりによぎった松坂の地で、有望な国学徒に出会うとは思ってもみなかったことであろう。(中略)真淵の学識に宣長の才学と若さがあれば、向かうところ敵なしである。67歳の老学者は34歳の前途有望な学者に希望の光を見出した。


伊勢街道を雨の中をとぼとぼと歩く。大手通に入り、少し進んでから右折すると左手に長谷川治郎兵衛家と、まどゐのやかた見庵があり、その向かいに本居宣長旧宅跡がある。
本居宣長旧宅跡は、特別史跡になっているが、建物は松阪城跡に移築されたので、今は礎石だけが復元されている。離れ(長男の春庭が住んでいた)と、土蔵、庭の松は残されているが、12歳から72歳まで暮らした場所にしてはちょっと寂しい。

本居宣長記念館・鈴屋(本居宣長旧宅)
松阪市役所の前を通り、松坂城跡に到着。

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まっすぐに本居宣長記念館に向かう。ちなみに松阪は1889(明治22)年の町制施行に際して地名を「松坂」から「松阪」に改めたため現在は「松阪」と書くが、史跡名称では「松坂」を使用しているとのことである。

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本居宣長記念館で開催中の冬の企画展「本居宣長、本を出す」展を見る。これを目当てに松阪までやってきたのだ。宣長の全著作が展示されているという。11時から12時までの「館長による展示説明会」に合流して、じっくりと見ることができた。

宣長の版本感について、『本居宣長 文学と思想の巨人』には、次のように記されている。

宣長は門弟の要望を聞き入れて自著を上梓することが多かった。多忙で講義に出席できない弟子を慮(おもんぱか)ってのことだったが、それは遠隔地の弟子を指導する上の便宜でもあった。そのために宣長は膨大な数の著作を出版したのである。むろん、手放しで版本を礼賛していたわけではない。版本と写本の役割の違いを正確に認識していたのである。


私は、本居宣長の著作『字音假字用格』(1776)と『玉あられ』(1792)の刊本を所持しており、それを原資料として「もとおり」と「すずのや」という活字体を制作している。また高弟で板木師の植松有信の筆耕による『古事記伝二十二之巻』(1803)も「うえまつ」という名称で制作している。

このように宣長は版本の短所を十分に認識しながらも、やはり稀少な写本と比べると、やはり版本は必要であると考えたのである。その結果、自著の刊行に際して、細心の注意を払って上梓することを自らに課した。稿本(下書き)は初稿、再稿を経て清書してから板下を作った。刷り上がった校正(ゲラ)も校合刷(きょうごうずり)で確認し、二番校合を取って再確認することもあった。そのようにして、ようやく版本が出来(しゅったい)したのである。このような作業も含めて出版である。それゆえ、出来上がった版本を手に取った時の宣長の喜びは想像に余りある。単に自著を一度に大量生産するといった姑息(こそく)な考えではなかったのである。


「本は出版することに意味がある」「本がつなぐ真淵と宣長」「職人の技」「はじめての出版」「校正だって手は抜かない」「鈴屋ネットワーク〜本がめぐるドラマ」など興味深いテーマで、写本、版本、板木が並ぶ。『源氏物語玉の小櫛』は版本と板木が展示されているが、その板木には埋め木で訂正された跡が残っている。

さらに私は、自称門人という平田篤胤の著作『神字日文伝』(1824)から「ひふみ」を、没後の門人、伴信友『仮字本末』(1850)から「さきがけ」という活字体を制作している。

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本居宣長記念館の隣に移築された鈴屋(本居宣長旧宅)にも立ち寄った。2階の書斎は外から覗くようになっているのだが、強い雨が降っていたので、はっきりとは見えなかったのは残念だった。


本居宣長ノ宮〜樹敬寺
雨は降り続いていた。四五百(よいほ)の森の「本居宣長ノ宮」に参詣する。「山室山神社」として本居宣長の奥墓の隣に作られたが、移築されて「本居神社」となり、さらに改称して現在は「本居宣長ノ宮」となっている。この神社の宮司は、宣長の高弟で板木師であった植松有信の子孫だそうだ。
本居宣長歌碑のある松阪神社、御城番屋敷に立ち寄り、同心町と呼ばれる区域を通り、旧三重県立工業高校製図室(赤壁校舎)の外観を見ながら、新町通に戻ってきた。本居家の菩提寺、樹敬寺(じゅきょうじ)に立ち寄る。一族の墓の中に、宣長夫妻と春庭夫妻の墓が背中合わせに立っている。ともに国史跡に指定されている。
宣長は『遺言書』を執筆している。『本居宣長 文学と思想の巨人』にも詳細が記されている。

問題は墓を二つ作るように指示していることである。山室山妙楽寺(みょうらくじ)の墓と樹敬寺の墓である。妙楽寺の墓には遺骸を納め、樹敬寺の墓は空にするように記している。それゆえ、葬送の折には夜のうちに棺(ひつぎ)を妙楽寺に運んでおき、樹敬寺へは「空送(カラダビ)」にすることを遺言している。さすがにこの願いは、当時の常識に反するために聞き入れられなかったようであるが、何とも奇妙な葬式である。妙楽寺には年に一度の命日だけの墓参、樹敬寺には祥月命日の墓参を要請している。



※足をのばして

小津安二郎青春館
昼食後、雨のなかを小津安二郎青春館に向かう。

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映画監督小津安二郎の少年時代から学生時代までにスポットを当てている。ひとりで、松阪小津組が制作した「名監督 青春のまち」というビデオを見た後、日記、教科書類、ノート、習字、図画、写真など学生時代の遺品の数々を、館員の説明つきで見るという贅沢な一時間だった。
posted by 今田欣一 at 08:28| Comment(0) | ★本と旅と[メイン] | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする