2020年11月09日

[本と旅と]北京〜三大博物館を巡る(2016年)

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米山寅太郎『図説中国印刷史』とともに

中国の古典籍は、わが国では「漢籍」と呼ばれている。「漢籍」とは中国人の著作で、中国語(漢文)で書かれ、中国で出版された書物のことである。わが国にも多く輸入され、静嘉堂文庫や多くの図書館で所蔵されている。
それでもなお「漢籍」のゆかりの地を訪れてみたいと思っていた。3度目の北京訪問で、それが叶うことになった。


中国国家典籍博物館

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2016年1月9日(土曜日)。劉慶さん、應永會さんとともに、汪文さんの案内で、中国国家図書館の敷地のなかにある中国国家典籍博物館へ。2014年9月10日に開館したそうなので、建物もまだ新しい。

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常設展では、中国国家図書館の所蔵する典籍の一部が、文学的な歴史、製本の歴史などのテーマ別に展示されていた。
『図説中国印刷史』(米山寅太郎著、汲古書院、2005年)では取り上げられている古典籍の多くは中国国家図書館で所蔵されているものだ。『図説中国印刷史』で次のように書かれている陳宅書籍舗の出版物も所蔵されている。

南宋時代には、民間書肆による出版も盛んに行われた。首都の臨安では陳起(字名は宗之)父子の書舗が名を知られた。陳氏の店は、臨安府棚北大街、睦親坊の南と、洪橋子南河西岸とにあり、「陳宅書籍舗」「陳宅経籍舗」と称し、その出版物で現存するものには『羣賢小集』『王建詩集』『朱慶餘詩集』『李丞相詩集』『唐女郎魚玄機詩集』などがあり、猫字橋河東岸の開牋紙馬舗鐘家には『文選』がある。また同じ臨安府の太廟前には尹家書籍舗(『歴代名医蒙求』『捜神秘覧』『続幽怪録』)があり、中瓦南街東に栄六郎の開印輸経史書籍舗(『抱朴子』)があった。この栄六郎の書籍舗は、北宋時代、旧都汴京(開封市)の大相国寺東に開店したものが、南渡に従って臨安に移ったものである。


漢字書体「陳起」の原資料である『南宋羣賢小集』はなかったものの、「漢字書体二十四史」として制作している活字書体の原資料の書籍をナマで見ることができたので、ついついガン見してしまい、ガラスケースに頭をぶつけてしまったぐらいだ。
このときの企画展は「宋元善拓展」と「甲骨文記憶展」をやっていた。「宋元善拓展」では、宋・元代の拓本と現代の書家の臨書を並べて展示されていた。「甲骨文記憶展」も展示にいろいろ工夫していて楽しかった。

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孔廟・国子監博物館

2016年1月10日(日曜日)、午前中に孔廟・国子監博物館を見学することになった。

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孔廟(孔子廟)は、1302(大徳10)年に建てられた。山東省の曲阜の孔廟に次ぐ規模を持っている。主殿の大成殿には孔子や弟子の位牌が祭られ、殿内には72人の孔子の弟子の塑像や祭祀用の古楽器などが展示されていた。

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孔廟から国子監に入る。「左廟右学」の伝統思想に則り、1306(大徳10)年に設立された。明代初期には「北平郡学」と呼ばれていたが、永楽2年(1404年)に再び国子監と改められた。元・明・清時代の最高学府である。
漢字書体「金陵」の原資料は南京国子監で出版された『南齊書』だが、北京国子監の『南齊書』も存在する。北京国子監でも出版は行われていたのだ。
『図説中国印刷史』では、南京国子監とともに、北京国子監についても書かれている。

この南監に対し、太祖の嫡孫で第二代の恵帝(在位一三九九—一四〇二)を廃して帝位についた太祖の第四子、成祖朱棣、永楽帝(在位一四〇三—二四)は北方に対する戦略的必要から都を北京に遷し、北京にも国子監を置いた。これを北監と略称する。『明史』「成祖紀」には、永楽元年(一四〇三)正月、北平を以て北京と為し、二月庚戌、北京留守行後軍都督府、行部、国子監を設けたことを記し、北京を京師と為す旨を記している。而してこの北監においても、周弘祖の『古今書刻』によれば、四十一種の書が出版されたといわれる。そのうち、万暦十四年(一五八六)から二十一年(一五九三)にかけて『十三経註疏』、二十三年(一五九六)から三十四年(一六〇六)にかけて上梓された『二十一史』などが知られている。


ちなみに南京国子監の跡地は、現在、東南大学・四牌楼キャンパスになっている。東南大学は中国の国立大学である。
孔廟・国子監博物館にある乾隆石経も目当ての一つだった。儒教の十三経を石に彫った、いわば石の書物である。この拓本(複写)を、足利学校事務所のビデオルームで見て以来、ぜひ現物を見たいと思っていたのだ。「乾隆石経」の扁額は、ノーベル文学賞の莫言氏の書だそうだ。

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乾隆石経は、清の乾隆帝が作らせたものだ。江蘇省出身の貢生(科挙に合格し、国子監に入学した者)で、著名な書家であった蔣衡が、791年(乾隆56年)から3年かけて楷書で書きあげた。189石が完全に保存されている。

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ひときわ大きな石碑は、乾隆帝の御製文である。おもて面は漢字(行書)、うら面は満洲文字で刻まれている。熹平石経が隷書体、開成石経が楷書体であったので、乾隆石経の御製文の行書体には注目していた。

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故宮博物院


2016年1月10日の午後は、故宮博物院へ。

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故宮博物院は明・清両王朝の宮殿建築と宮廷収蔵を基礎として設立した総合的な国立博物館である。現在、南の午門が参観者の入り口であり、北の神武門が出口となっている。
南北に通る中軸線に沿って、太和殿、中和殿、保和殿を中心とし、左右に文華殿、武英殿が配置されている。太和殿、中和殿、保和殿は以前見学したので、今回は左右の文華殿、武英殿を見たいと思っていた。

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武英殿は、明代の1420年に北京の紫禁城内の南西隅に建てられた建物である。清代には刻書処が設置され、殿版と称される書籍が刊行されたのである。清代の出版の状況について、『図説中国印刷史』では次のように記されている。

明末の騒乱以後、衰退した印刷出版の事業も、清朝の安定とその文化政策の推進とによって、漸次活況を呈し、活字による印行も前代を凌駕して隆盛となった。
その第一に挙ぐべきは、すでに「清の類書・叢書」の項で述べた『欽定古今図書集成』である。この書は康熙帝の発企に始まり、雍正帝がその後を嗣いで雍正三年(一七二五)末に完成した。凡そ一万巻、五〇二〇冊に及ぶ浩瀚なもので、銅活字を使用、銅活字本としては空前絶後の大事業であった。


漢字書体「武英」の原資料は『欽定古今図書集成』である。用いられた銅活字は武英殿で貯蔵されていたようだ。

『古今図書集成』の印刷に用いられた銅活字は、その後、武英殿に貯蔵され、莫大な数量であったが、盗難によって漸次減少を来たすとともに、乾隆初年には銅の騰貴による銅銭の不足から、同九年(一七四四)に銅銭に改鋳された。


1773(乾隆38)年に、『四庫全書』のなかの希少価値のあるものを武英殿で刊行することになり、莫大な経費を軽減するために木活字を用いて印刷する方法が採用された。武英殿で刊行された木活字版の書籍を総称して『武英殿聚珍版叢書』と呼ぶ。この木活字版に乾隆帝が与えた雅称が聚珍版である。
武英殿は、2005年から故宮博物院の書画館として一般開放されるようになっていた。しかしながら、この日は展示替え期間中で見ることができなかった。残念だが仕方ない。午門・雁翅楼や、文華殿・文淵閣などをじっくりと見学した。

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2015年に新たに開放されたのが、故宮の西側、寿康宮、慈寧花園、慈寧宮のある「慈寧宮エリア」だ。ここは皇帝と后妃たちが居住し、日常の政務を取り扱う場所である。慈寧園に設けられた「彫塑館」などを見学した。

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2021年08月14日

[本と旅と]アムステルダム〜おうちで旅気分(2021年)

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桜田美津夫著『物語オランダの歴史』とともに

パスポートを更新したものの、新型コロナウイルス感染症の蔓延がおさまらない。国内旅行さえも行けなくなり、盆帰省も諦めた。だから海外など、とうてい無理な状況が続いている。
たとえ少し緩和して旅行できるようになっても、今度は年齢的な問題もあって、ヨーロッパは難しいと思うようになった。
そんな状況で、旅行代理店によるオンラインツアーというのが企画されていることが話題になった。現地スタッフによる海外の観光地の映像を有料動画配信することで、旅行の擬似体験を販売するというものだ。
ユーチューブには多くの方が個人で動画をアップしているので、これらを試聴すれば、オンラインツアーとまではいかないまでも、それなりの旅行体験ができるのではないかと考えた。テレビの画面を通してではあるが、以前から行ってみたかったアムステルダムを訪ねることにした。
現地ガイドの方の案内でアムステルダム市街を散策する「現地ガイドが教えるアムステルダム見どころ紹介」(RIO in オランダ 2020年3月公開)という約30分の動画があった。
ハイネケンビールとゴーダチーズを用意して、アムステルダムの擬似観光を始めよう。

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アムステルダム中央駅

街歩きのスタートは、アムステルダム中央駅。パリ北駅からアムステルダム中央駅までは、現在、高速鉄道タリスを使うと3時間10分で行けるそうだ。その動画もユーチューブで見ることができる。

鉄道が敷かれ、アムステルダム中央駅ができる以前にも、当然、ヨーロッパ諸国との交流はあった。16世紀の出版・印刷の中心はパリであった。父型彫刻師としてギャラモン(ガラモンとも)(?–1561)が知られている。
アムステルダム中央駅は1889年に開業した。アイ湾を埋め立てて人工島を作り、その上に駅が建設された。赤煉瓦造りで、二つの重厚な塔が特徴的である。右の塔には大時計、左の塔には風向計が設置されている。設計はオランダ人建築家ピエール・カイパース(1827–1921)による。オランダの国家遺産に登録されている。
ユーチューブに「アムステルダム中央駅-オランダの美が集結」(Koki Ota 2018年11月公開)という25分弱の動画があった。これを観ていくことにしよう。


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アムステルダム市街

アムステルダム中央駅から徒歩10分ぐらいでダム広場に着く。アムステル川をせき止めるダムがあった場所で、ここからアムステルダムの歴史が始まったと言われている。国立モニュメント(第二次世界大戦の慰霊碑)がある。広場の西に接して王宮(旧市庁舎)があり、北東にデ・バイエンコルフ(デパート)、北には新教会がある。

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ダム広場からシンゲル運河までは、徒歩5分ぐらいだ。運河があって、自転車がたくさんあって、小さな家が並んでいるという光景は、「まさにアムステルダム」という感じである。

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家の間口によって税金が決まるらしく、どの家も幅は狭く高さがあり、奥行きのある家になっている。

王宮(旧市庁舎)が建築され、環状運河が造成された17世紀は、オランダの黄金時代といわれる。出版・印刷においても中心地となった。『物語オランダの歴史』(桜田美津夫著、中央公論新社、2017年)には次のように書かれている。

17世紀中の全ヨーロッパの出版物のうち、過半数はオランダで作られたと言われる。これは早くから低地諸州に印刷術の独自の伝統があり、そのノウハウや人材が、スペイン王権の束縛から解かれた北部オランダに集約されたためである。優れた製紙工業、発達した流通システム、広汎な読者層、この時期のヨーロッパ中のどこよりも許容範囲の広い「出版の自由」などが、外国の印刷出版業者や著述家たちを引き寄せたからである。

父型彫刻師では、クリストフェル・ファン・ダイク(1601–1669)が知られている。

アムステルダムの環状運河地区は、ユネスコの世界遺産に登録されている。世界遺産に登録されたのは、内側のシンゲル運河、17世紀に建造されたヘーレン運河・ケイザー運河・プリンセン運河の3運河と、それに沿う街路である。
プリンセン運河まで進んできた。3運河は街の拡大の中で造られた。運河沿いには並木が植えられ、それぞれの家の裏側には広い庭があるそうだ。都市と自然の融合が図られている。
「チーズミュージアム」でちょっと休憩したあと、「アンネフランクの家」の前へ向かう。環状運河地区の最も人気のある観光地となっているのが、アンネフランクとその家族8人が隠れていた家である。
ミュージアムになっているが、隠れていた場所なのですごく狭い。だから入場制限、人数制限が厳しくなっていて、15分刻みで事前にオンラインで予約が必要だということ。この時点で2ヶ月先まで予約が埋まっている。

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内部は撮影禁止だが、「アンネフランクの家の中を覗いてみよう!」(RIO in オランダ 2020年12月公開)という動画で、VRによって再現してくれている。
アンネフランクの家の近くに、ホモモニュメント(同性愛者記念碑)がある。ナチスによって迫害された同性愛者を追悼するモニュメントで、現在・過去・未来を表す三つの巨大な三角形が、さらに大きな三角形の角になるように設置されている。水辺に近い三角形には花輪が置かれている。
環状運河地区を南に進み、オランダ料理のレストラン「HAESJE CLAES」、シンゲルの花市場、チーズショップ「HENRI WILLIG」を紹介してもらいながらレンブラント広場へと到着する。


アムステルダム国立美術館

今度は、バンホーテン・ココアとストロープ・ワッフルを用意して、アムステルダム国立美術館を観ることにしよう。
「アムステルダム国立美術館を歩きます」(ソムリンTV 2019年12月公開)という1時間45分の動画があったので、これに同行することにする。
ライブだったようで、パンフレットを手に迷いながら歩いたり、トイレを探してウロウロしたりするのがリアルである。撮影者のソムリンさんと友人のやりとりが、弥次さん喜多さんのようで絶妙だ。
アムステルダム国立美術館は、オランダ人建築家ピエール・カイパースの設計である。オランダの国家遺産に登録されている。
父型彫刻師クリストフェル・ファン・ダイクは、レンブラント・ファン・レイン(1606–1669)とほぼ同年代である。ヨハネス・フェルメール(1632?–1675?)は25、6歳ほど若い。
『物語オランダの歴史』には次のように書かれている。

オランダの17世紀が黄金時代と呼ばれるのは、その経済的繁栄もさることながら、その土壌の上に花開いた多彩な文化活動によるところが大きい。とりわけオランダ絵画の17世紀は、西洋美術史のなかで、イタリアルネサンス及びフランス印象派の時代と並ぶ創造的絵画芸術の時代であった。


1時間余りで、ようやくヨハネス・フェルメールにたどり着いた。もちろん『牛乳を注ぐ女』(1660)は説明文を読みながらゆっくり鑑賞する。さらに『手紙を読む青衣の女』(1660)を鑑賞。『デルフトの小路』(1660)、『恋文』(1669–1670)なども映し出されていく。
そして、レンブラント・ファン・レインの『夜警』(1642)へ。修復中だったが、その様子を見ることができるのもリアルである。『自画像』(1661)、『イサクとリベカ(ユダヤの花嫁)』(1665–1670)などを観て回る。撮影者は、初期の作品である『読書をする老女(女預言者アンナ)』(1631)に注目して、説明文を読みながら熱心に観ている。
フェルメールとレンブラントの代表作を観るだけなら画集でいいのだが、展示の状況や観客の様子などが、テレビの画面越しであるが感じられたのはよかった。

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再び、アムステルダム中央駅

レンブラント広場から、今度は北に進み、マヘレの跳ね橋などの説明を聞き、「飾り窓」地区の近くを通って、アムステルダム中央駅に戻ってきた。これで、アムステルダム市街の見どころを巡って、一周してきたということになる。

18世紀になると、出版・印刷の中心は、オランダからイギリスへと受け継がれていった。ウィリアム・キャズロン(1692–1766)はアムステルダムの父型彫刻師ディルク・ヴォスケンスの活字をモデルにしたといわれる。

現在、アムステルダム中央駅からロンドン・セント・パングラス駅までは、高速鉄道ユーロスターに乗って3時間40分で行けるそうだ。その動画もユーチューブで見ることができる。


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2023年05月15日

[本と旅と]長崎・和華蘭の旅(2023年)

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『わかる!和華蘭 新長崎市史』とともに

5月10日朝。博多駅から「リレーかもめ13号」と西九州新幹線「かもめ13号」を乗り継いで、長崎駅に到着。

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午前中に到着したので、まず宿泊する旅館「和みの宿おりがみ」に向かった。この旅館は長崎駅から徒歩8分で、長崎歴史文化博物館までの通り道にある。チェックインは15時以降となっていたが、荷物だけ預かってもらえるだろうと思っていた。ところが玄関には鍵がかかっていて、「チェックイン前の荷物の預かりはできない」という張り紙が……。
さて、長崎駅に戻ってコインロッカーに入れるのもしんどいなあと悩んでいた時、ちょうど旅館の人が出てきた。頼み込んですぐにチェックインさせてもらって、部屋に荷物を置くことができた。
これから、いよいよ長崎・和華蘭の旅のスタートである。



長崎さるく1日目「和」 長崎奉行所立山役所跡

長崎歴史文化博物館(長崎奉行所立山役所跡)
「和みの宿おりがみ」から長崎歴史文化博物館は徒歩3分ぐらいだ。長崎歴史文化博物館は長崎奉行所立山役所があった場所に建てられており、その一部が復元されている。以前、復元された「箱館奉行所」を見ているので、今度は復元された「長崎奉行所」を見ることができてよかった。

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そもそも私は、建築当時の姿で再現されたものが好きなのだ。もちろん古いものが現存するというのも魅力的だが、当時の人々が見たものが現代の技術で復元されるということにより強く惹かれる。
長崎歴史文化博物館の常設展示は、「歴史文化展示ゾーン」と「長崎奉行所ゾーン」に分けられる。案内に従い、「歴史文化展示ゾーン」をざっくり見学したあと、期待していた「長崎奉行所ゾーン」をじっくりと見て回ることにする。まず、「立山役所の復元」というパネル展示から見学する。

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復元された立山役所の玄関から入り、積荷を大改(検分)する際に使用された「対面所・次之間・使者之間」、裁判を行った「御白洲」、応接間にあたる「書院・書院次之間」を見学。縁側の「厠」も当時のまま復元されている。

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『わかる!和華蘭 新長崎市史』(長崎市史編纂委員会監修、株式会社長崎新聞社発行、2015年)には次のように書かれている。

江戸幕府は、長崎を天領とし、慶長8年(1603)長崎奉行に旗本小笠原一庵を、長崎代官に村山等安をそれぞれ任命した。
この時期の長崎奉行は、内町23ヵ所支配したが、貿易の監督が主な職務で、貿易に駐在した。
そこで、長崎代官は外町43ヵ所(後に54ヵ所)他郷村地の支配にあたったが、長崎奉行は、後に権限を増大、元禄12(1619)以降は内町・外町の全部を支配した。


長崎歴史文化博物館内のレストラン「銀嶺」で、勧められていた長崎名物の「トルコライス」をいただいた。

鎮西大社諏訪神社・長崎公園
長崎歴史文化博物館から徒歩3分、長い階段を登って鎮西大社諏訪神社を参拝。長崎では「おすわさん」と呼ばれて親しまれ、10月の例祭は「長崎くんち」として知られている。

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諏訪神社境内には、大正時代を代表する建築物で旅館として経営されていた「諏訪荘」が移築、奉納されている。諏訪神社に隣接する「長崎公園」を散策。日本最古といわれる噴水や、本木昌造翁像がある。

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思案橋・丸山花街
諏訪神社電停から思案橋電停まで移動。坂本龍馬像のある「丸山公園」を起点に、「史跡料亭花月」、「長崎検番」、「梅園身代り天満宮」、「中の茶屋」、「料亭青柳」をめぐってぐるりと一周し、再び丸山公園に戻る。丸山花街は、江戸の吉原、京都の島原に並んで日本三大遊郭といわれる。

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まだ夕食の時間には早すぎた。思案橋の「康楽」は、開店時間の6時まで1時間以上あるのであきらめた。西浜町電停で下車してみたが、「群来軒」は定休日だった。どうしても「長崎ちゃんぽん」をいただきたかったので、長崎駅構内の「かもめ市場」にある「蘇州林」で食べることにした。

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長崎駅から「和みの宿おりがみ」に戻ってきた。この旅館は、2階のカフェが受付になっていて、カフェの営業時間外は誰もいなくなる。入り口と部屋ふたつの鍵を渡されていた。
部屋は8畳の綺麗な和室で、床の間と2畳の縁側がある。バス、トイレが別になっている。広々としていてくつろげる空間である。
このあと、稲佐山展望台から「長崎の夜景」を見ようと思っていた。長崎の夜景は、上海、モナコとともに、世界新三大夜景に選ばれている。だが、ちょっと疲れていたので取りやめることにした。
旅館の部屋でくつろぎながら、YouTubeで、いろいろな「長崎の夜景」の動画を見ることにした。iPhoneで見るので画面は小さいが、旅館のWi-Fiが使えるので、じっくりと楽しむことができた。



長崎さるく2日目「華」 長崎唐人屋敷跡

長崎唐人屋敷跡
路面電車の新地中華街電停で降り、朝の新地中華街を通り抜ける。毎年2月に開催される長崎ランタンフェスティバルのメイン会場になる「湊公園」から左に曲がると、道路の両側の歩道に「唐人屋敷象徴門(誘導門)」が建っている。さらに進むと、道路を跨いで「唐人屋敷象徴門(大門)」がある。

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出島と唐人屋敷は同等の価値を持つ歴史遺産である。オランダ貿易が注目されるが、中国との貿易の方が質量ともに上回っている。

唐人屋敷は、密貿易を取り締まるため、長崎村十善寺郷(館内町)の薬草園跡に造成されたもので、元禄元年(1688)に着工、同2年に完成した。
唐人屋敷の構造は、その機能から大きく、中国人の居住スペースである二ノ門から内側の区域、大門と二ノ門と間の区域、周囲の練塀と竹矢来(竹で組んだ囲い)の間の区域と三つに分けられた。


長崎歴史文化博物館には復元模型が展示されているので、大体の全体像を見ることができる。復元模型も大好きである。

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現存する土神堂・天后堂・観音堂をめぐる。これらは三堂ともに市指定史跡に指定されている。
まず見えてくるのが土神堂。生活を守ってくれるという土神(土地の神)を祀っている。1691(元禄4)年の創建だが、解体と再建を繰り返し、石橋だけが残っていたが1977(昭和52)年に復元された。

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唐人屋敷があった時代と同じ趣のある坂道を上がる。途中にある「十善寺地区まちづくり情報センター」と「蔵の資料館」には、地域の施設だと思い込んでいて、前を通りながら立ち寄らなかった。せめて「唐人屋敷資料館」という名称だったら見逃すことはなかったのに。ちょっと悔やんでいる。
あとで調べたら、「蔵の資料館」には唐人屋敷の歴史、貿易、生活などの資料が展示されているという。また「十善寺地区まちづくり情報センター」では中国文化の体験ができるとのことである。
唐人屋敷の南西にある天后堂は、航海の安全を祈願し、天后聖母(媽祖)を祀っている。1736(元文元)年に創建され、1906(明治39)年に改築された。

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今度は東に進み、細い坂道を上ると、アーチ型の石門が見えてくる。観音堂は、観世音菩薩と関帝が祀られている。逆光になってしまい、写真を撮るのが難しい。1737(元文2)に建立されたと想定され、1787(天明7)年に再建されたものを1917(大正6)年に改築された。

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観音堂から少し南に行くと遺構広場があり、四隅モニュメント(南東)と、空堀跡や再現された練塀を見ることができる。

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もうひとつ、唐人屋敷廃止後の1897(明治30)年に建てられた「福建会館」がある。原爆の影響で本堂は倒壊してしまい、正門と天后堂のみが現存している。中庭には孫文の銅像が建てられている。

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長崎孔子廟・中国歴代博物館
新地中華街電停に戻り、路面電車で石橋電停へ向かう。
長崎孔子廟は1893(明治26)年に清朝政府と在日華僑が協力して建てた日本で唯一の本格的な中国様式の孔子廟である。儀門(正門)から入ると、両側に七十二賢人の石像が並び、さらに両廡の壁には大理石に彫られた論語の全文が掲示されている。圧巻である。

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孔子座像が祀られた大成殿の奥には、1983年に新設された中国歴代博物館がある。博物館2階は中国の一級文物の特別展示室、3階は長崎孔子廟に関わる史料の展示室となっている。

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崇福寺
石橋電停から新地中華街電停で乗り換えて崇福寺電停へ。路面電車を乗りまくっている。
崇福寺は、1629(寛永6)年の創建で、明末清初の建築様式をそのまま輸入したもので、わが国では他に類例がない。寺に架けられている扁額・柱聯は渡来してきた唐僧の墨蹟だ。
三門、第一峰門(国宝)を通り、崇福寺の本堂・大雄宝殿(国宝)がある。ここで入場料を賽銭箱に投入する。大雄宝殿の向かいには護法堂、隣には媽祖堂門、奥に媽祖堂がある。大釜がひときわ目を引く。

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午後の予定が決まっているので、昼食の時間を取ることができない。西浜町にある「だしぼんず」という店で「五島うどん」を食べたかったが、あきらめてコンビニで買ったサンドイッチで簡単に済ませることにした。


近現代編① 長崎みなとめぐり遊覧船・軍艦島クルーズ

午後からは近現代編①として、長崎みなとめぐり遊覧船・軍艦島クルーズ。海上から「三菱長崎造船所」などを見ながら進む。

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いよいよ軍艦島こと「端島」に上陸。3ヶ所の見学広場でガイドさんの説明を聞く。

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近現代編② 長崎原爆資料館・爆心地公園・平和公園

さらに近現代編②として、長崎原爆資料館・爆心地公園・平和公園を巡った。中学校の修学旅行で平和祈念像の前で記念写真を撮って以来、54年ぶりの訪問である。

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夕食は、昨日狙いをつけていた「かもめ市場」内の「みのりカフェ」で、「長崎和牛のレモンステーキ丼」にしようか「長崎県産天然鯛の天丼」にしようか迷った末、「長崎県産天然鯛の天丼」をいただくことにした。決め手は値段である。



長崎さるく3日目『蘭』 長崎出島和蘭商館跡

長崎出島和蘭商館跡
旅館をチェックアウトし、長崎駅のコインロッカーに荷物を預けてから、路面電車で出島電停に向かう。ここから歩いて5分ほど、出島の「水門」のところを曲がり、「表門」に到着。

出島は、寛永13年(1636)に2年の歳月をかけて築造された扇形の人工の島で、その築造の目的は、ポルトガル人を居住させ、厳重な監視のもとに置くためであった。
寛永16年ポルトガル貿易が禁止されると、同18年平戸からオランダ商館が移転、以後、安政6年(1859)までの約218年間、出島にオランダ商館が置かれ、わが国の近代化に大きく貢献した。



出島の復元整備事業は、1951(昭和26)年から始まった。第一期(2000年)、第二期(2006年)、第三期(2016年)と、復元整備が進んでいる。最終的には、四方に水面を確保し、19世紀初めの扇形へと完全復元をめざしている。
出島和蘭商館跡に復元された建物で一番大きい「カピタン部屋」は、カピタン(キャプテン、商館長)の事務所兼住宅だ。1階は展示室、2階にはクリスマスを祝う宴の席が再現されている。

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ヘトル(商館長次席)の住居「ヘトル部屋」は、1階がミュージアムショップ、2階は着物レンタルの受付になっている。復元した建物を利用しているのである。この裏手には商館員の食事を調理していた「料理部屋」がある。
「一番船船頭部屋」はオランダ船船長や商館員の住居で、1階は倉庫として使用された土間、2階は居室が再現されている。その並びに、輸入品である砂糖を保管していた「一番蔵」「二番蔵」「三番蔵」、さらに向かい側には「十四番蔵」「十六番蔵」があり、それぞれが展示室になっている。

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「拝礼筆者蘭人部屋」はオランダ人書記長の住居で、蘭学を紹介する展示室として使われている。「筆者蘭人部屋」は数人の書記役の住居で、貿易・文化交流を紹介する展示室となっている。

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日本側の施設として、貿易事務や管理を担当する出島乙名の「乙名部屋」、出島の出入りを監視する「乙名詰所」、輸出品である銅の計量・梱包をしていた「組頭部屋」と「銅蔵」が復元されている。

このほか開国後に建てられた石造倉庫も復元されている。「旧石倉」は考古館、「新石倉」は総合案内所・出島シアターとして利用されている。さらに明治期以降の建物もある。1878(明治11)年に建てられた「旧出島神学校」は現存する日本最古のキリスト教プロテスタントの神学校、1903(明治36)年に建てられた「旧長崎内外倶楽部」は現在レストランとして使用されている。


シーボルト宅跡・長崎シーボルト記念館
7分ほど歩いてメディカルセンター電停へ。路面電車に乗り新中川町電停まで移動。そこから10分ほど歩いて「シーボルト宅跡」に辿り着く。シーボルトが医学を教えた私塾「鳴滝塾」の跡で、シーボルトの鏡像が建てられている。

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この隣接地には、オランダ・ライデン市のシーボルト旧宅をイメージした赤煉瓦洋館の「長崎シーボルト記念館」があり、日本での業績が紹介されている。

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大浦天主堂・キリシタン博物館
新中川町電停から大浦天主堂電停まで路面電車に乗る。
「大浦天主堂」は1864年の創建で、正式には「日本二十六聖殉教者聖堂」という。1597年に殉教した26人が、1862年に聖人に列せられたのを受けて捧げられた教会だ。

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史跡内にある「旧羅典神学校」および「旧長崎大司教館」は「大浦天主堂キリシタン博物館」として開設されていて、日本キリシタン史に関する展示が行われている。

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近現代編③ グラバー園・旧グラバー邸

この日も昼食の時間がしっかり取ることができなかった。
近現代編③として、グラバー園に入る。時間の関係で旧グラバー邸のみを見学。こちらも中学校の修学旅行以来である。三浦環像の前で撮った54年前の記念写真が残っている。

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長崎駅前から高速バスで長崎空港に向かう。JAL614便で羽田空港へ。途中、頭を雲の上に出した富士山が見えた。

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posted by 今田欣一 at 20:57| Comment(0) | 漫遊★本と旅と[スペシャル] | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする