2020年11月09日

[本と旅と]北京〜三大博物館を巡る(2016年)

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米山寅太郎『図説中国印刷史』とともに

中国の古典籍は、わが国では「漢籍」と呼ばれている。「漢籍」とは中国人の著作で、中国語(漢文)で書かれ、中国で出版された書物のことである。わが国にも多く輸入され、静嘉堂文庫や多くの図書館で所蔵されている。
それでもなお「漢籍」のゆかりの地を訪れてみたいと思っていた。3度目の北京訪問で、それが叶うことになった。


中国国家典籍博物館

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2016年1月9日(土曜日)。劉慶さん、應永會さんとともに、汪文さんの案内で、中国国家図書館の敷地のなかにある中国国家典籍博物館へ。2014年9月10日に開館したそうなので、建物もまだ新しい。

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常設展では、中国国家図書館の所蔵する典籍の一部が、文学的な歴史、製本の歴史などのテーマ別に展示されていた。
『図説中国印刷史』(米山寅太郎著、汲古書院、2005年)では取り上げられている古典籍の多くは中国国家図書館で所蔵されているものだ。『図説中国印刷史』で次のように書かれている陳宅書籍舗の出版物も所蔵されている。

南宋時代には、民間書肆による出版も盛んに行われた。首都の臨安では陳起(字名は宗之)父子の書舗が名を知られた。陳氏の店は、臨安府棚北大街、睦親坊の南と、洪橋子南河西岸とにあり、「陳宅書籍舗」「陳宅経籍舗」と称し、その出版物で現存するものには『羣賢小集』『王建詩集』『朱慶餘詩集』『李丞相詩集』『唐女郎魚玄機詩集』などがあり、猫字橋河東岸の開牋紙馬舗鐘家には『文選』がある。また同じ臨安府の太廟前には尹家書籍舗(『歴代名医蒙求』『捜神秘覧』『続幽怪録』)があり、中瓦南街東に栄六郎の開印輸経史書籍舗(『抱朴子』)があった。この栄六郎の書籍舗は、北宋時代、旧都汴京(開封市)の大相国寺東に開店したものが、南渡に従って臨安に移ったものである。


漢字書体「陳起」の原資料である『南宋羣賢小集』はなかったものの、「漢字書体二十四史」として制作している活字書体の原資料の書籍をナマで見ることができたので、ついついガン見してしまい、ガラスケースに頭をぶつけてしまったぐらいだ。
このときの企画展は「宋元善拓展」と「甲骨文記憶展」をやっていた。「宋元善拓展」では、宋・元代の拓本と現代の書家の臨書を並べて展示されていた。「甲骨文記憶展」も展示にいろいろ工夫していて楽しかった。

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孔廟・国子監博物館

2016年1月10日(日曜日)、午前中に孔廟・国子監博物館を見学することになった。

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孔廟(孔子廟)は、1302(大徳10)年に建てられた。山東省の曲阜の孔廟に次ぐ規模を持っている。主殿の大成殿には孔子や弟子の位牌が祭られ、殿内には72人の孔子の弟子の塑像や祭祀用の古楽器などが展示されていた。

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孔廟から国子監に入る。「左廟右学」の伝統思想に則り、1306(大徳10)年に設立された。明代初期には「北平郡学」と呼ばれていたが、永楽2年(1404年)に再び国子監と改められた。元・明・清時代の最高学府である。
漢字書体「金陵」の原資料は南京国子監で出版された『南齊書』だが、北京国子監の『南齊書』も存在する。北京国子監でも出版は行われていたのだ。
『図説中国印刷史』では、南京国子監とともに、北京国子監についても書かれている。

この南監に対し、太祖の嫡孫で第二代の恵帝(在位一三九九—一四〇二)を廃して帝位についた太祖の第四子、成祖朱棣、永楽帝(在位一四〇三—二四)は北方に対する戦略的必要から都を北京に遷し、北京にも国子監を置いた。これを北監と略称する。『明史』「成祖紀」には、永楽元年(一四〇三)正月、北平を以て北京と為し、二月庚戌、北京留守行後軍都督府、行部、国子監を設けたことを記し、北京を京師と為す旨を記している。而してこの北監においても、周弘祖の『古今書刻』によれば、四十一種の書が出版されたといわれる。そのうち、万暦十四年(一五八六)から二十一年(一五九三)にかけて『十三経註疏』、二十三年(一五九六)から三十四年(一六〇六)にかけて上梓された『二十一史』などが知られている。


ちなみに南京国子監の跡地は、現在、東南大学・四牌楼キャンパスになっている。東南大学は中国の国立大学である。
孔廟・国子監博物館にある乾隆石経も目当ての一つだった。儒教の十三経を石に彫った、いわば石の書物である。この拓本(複写)を、足利学校事務所のビデオルームで見て以来、ぜひ現物を見たいと思っていたのだ。「乾隆石経」の扁額は、ノーベル文学賞の莫言氏の書だそうだ。

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乾隆石経は、清の乾隆帝が作らせたものだ。江蘇省出身の貢生(科挙に合格し、国子監に入学した者)で、著名な書家であった蔣衡が、791年(乾隆56年)から3年かけて楷書で書きあげた。189石が完全に保存されている。

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ひときわ大きな石碑は、乾隆帝の御製文である。おもて面は漢字(行書)、うら面は満洲文字で刻まれている。熹平石経が隷書体、開成石経が楷書体であったので、乾隆石経の御製文の行書体には注目していた。

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故宮博物院


2016年1月10日の午後は、故宮博物院へ。

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故宮博物院は明・清両王朝の宮殿建築と宮廷収蔵を基礎として設立した総合的な国立博物館である。現在、南の午門が参観者の入り口であり、北の神武門が出口となっている。
南北に通る中軸線に沿って、太和殿、中和殿、保和殿を中心とし、左右に文華殿、武英殿が配置されている。太和殿、中和殿、保和殿は以前見学したので、今回は左右の文華殿、武英殿を見たいと思っていた。

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武英殿は、明代の1420年に北京の紫禁城内の南西隅に建てられた建物である。清代には刻書処が設置され、殿版と称される書籍が刊行されたのである。清代の出版の状況について、『図説中国印刷史』では次のように記されている。

明末の騒乱以後、衰退した印刷出版の事業も、清朝の安定とその文化政策の推進とによって、漸次活況を呈し、活字による印行も前代を凌駕して隆盛となった。
その第一に挙ぐべきは、すでに「清の類書・叢書」の項で述べた『欽定古今図書集成』である。この書は康熙帝の発企に始まり、雍正帝がその後を嗣いで雍正三年(一七二五)末に完成した。凡そ一万巻、五〇二〇冊に及ぶ浩瀚なもので、銅活字を使用、銅活字本としては空前絶後の大事業であった。


漢字書体「武英」の原資料は『欽定古今図書集成』である。用いられた銅活字は武英殿で貯蔵されていたようだ。

『古今図書集成』の印刷に用いられた銅活字は、その後、武英殿に貯蔵され、莫大な数量であったが、盗難によって漸次減少を来たすとともに、乾隆初年には銅の騰貴による銅銭の不足から、同九年(一七四四)に銅銭に改鋳された。


1773(乾隆38)年に、『四庫全書』のなかの希少価値のあるものを武英殿で刊行することになり、莫大な経費を軽減するために木活字を用いて印刷する方法が採用された。武英殿で刊行された木活字版の書籍を総称して『武英殿聚珍版叢書』と呼ぶ。この木活字版に乾隆帝が与えた雅称が聚珍版である。
武英殿は、2005年から故宮博物院の書画館として一般開放されるようになっていた。しかしながら、この日は展示替え期間中で見ることができなかった。残念だが仕方ない。午門・雁翅楼や、文華殿・文淵閣などをじっくりと見学した。

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2015年に新たに開放されたのが、故宮の西側、寿康宮、慈寧花園、慈寧宮のある「慈寧宮エリア」だ。ここは皇帝と后妃たちが居住し、日常の政務を取り扱う場所である。慈寧園に設けられた「彫塑館」などを見学した。

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posted by 今田欣一 at 08:23| Comment(0) | ★本と旅と[スペシャル] | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年08月14日

[本と旅と]アムステルダム〜おうちで旅気分(2021年)

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桜田美津夫著『物語オランダの歴史』とともに

パスポートを更新したものの、新型コロナウイルス感染症の蔓延がおさまらない。国内旅行さえも行けなくなり、盆帰省も諦めた。だから海外など、とうてい無理な状況が続いている。
たとえ少し緩和して旅行できるようになっても、今度は年齢的な問題もあって、ヨーロッパは難しいと思うようになった。
そんな状況で、旅行代理店によるオンラインツアーというのが企画されていることが話題になった。現地スタッフによる海外の観光地の映像を有料動画配信することで、旅行の擬似体験を販売するというものだ。
ユーチューブには多くの方が個人で動画をアップしているので、これらを試聴すれば、オンラインツアーとまではいかないまでも、それなりの旅行体験ができるのではないかと考えた。テレビの画面を通してではあるが、以前から行ってみたかったアムステルダムを訪ねることにした。
現地ガイドの方の案内でアムステルダム市街を散策する「現地ガイドが教えるアムステルダム見どころ紹介」(RIO in オランダ 2020年3月公開)という約30分の動画があった。
ハイネケンビールとゴーダチーズを用意して、アムステルダムの擬似観光を始めよう。

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アムステルダム中央駅

街歩きのスタートは、アムステルダム中央駅。パリ北駅からアムステルダム中央駅までは、現在、高速鉄道タリスを使うと3時間10分で行けるそうだ。その動画もユーチューブで見ることができる。

鉄道が敷かれ、アムステルダム中央駅ができる以前にも、当然、ヨーロッパ諸国との交流はあった。16世紀の出版・印刷の中心はパリであった。父型彫刻師としてギャラモン(ガラモンとも)(?–1561)が知られている。
アムステルダム中央駅は1889年に開業した。アイ湾を埋め立てて人工島を作り、その上に駅が建設された。赤煉瓦造りで、二つの重厚な塔が特徴的である。右の塔には大時計、左の塔には風向計が設置されている。設計はオランダ人建築家ピエール・カイパース(1827–1921)による。オランダの国家遺産に登録されている。
ユーチューブに「アムステルダム中央駅-オランダの美が集結」(Koki Ota 2018年11月公開)という25分弱の動画があった。これを観ていくことにしよう。


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アムステルダム市街

アムステルダム中央駅から徒歩10分ぐらいでダム広場に着く。アムステル川をせき止めるダムがあった場所で、ここからアムステルダムの歴史が始まったと言われている。国立モニュメント(第二次世界大戦の慰霊碑)がある。広場の西に接して王宮(旧市庁舎)があり、北東にデ・バイエンコルフ(デパート)、北には新教会がある。

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ダム広場からシンゲル運河までは、徒歩5分ぐらいだ。運河があって、自転車がたくさんあって、小さな家が並んでいるという光景は、「まさにアムステルダム」という感じである。

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家の間口によって税金が決まるらしく、どの家も幅は狭く高さがあり、奥行きのある家になっている。

王宮(旧市庁舎)が建築され、環状運河が造成された17世紀は、オランダの黄金時代といわれる。出版・印刷においても中心地となった。『物語オランダの歴史』(桜田美津夫著、中央公論新社、2017年)には次のように書かれている。

17世紀中の全ヨーロッパの出版物のうち、過半数はオランダで作られたと言われる。これは早くから低地諸州に印刷術の独自の伝統があり、そのノウハウや人材が、スペイン王権の束縛から解かれた北部オランダに集約されたためである。優れた製紙工業、発達した流通システム、広汎な読者層、この時期のヨーロッパ中のどこよりも許容範囲の広い「出版の自由」などが、外国の印刷出版業者や著述家たちを引き寄せたからである。

父型彫刻師では、クリストフェル・ファン・ダイク(1601–1669)が知られている。

アムステルダムの環状運河地区は、ユネスコの世界遺産に登録されている。世界遺産に登録されたのは、内側のシンゲル運河、17世紀に建造されたヘーレン運河・ケイザー運河・プリンセン運河の3運河と、それに沿う街路である。
プリンセン運河まで進んできた。3運河は街の拡大の中で造られた。運河沿いには並木が植えられ、それぞれの家の裏側には広い庭があるそうだ。都市と自然の融合が図られている。
「チーズミュージアム」でちょっと休憩したあと、「アンネフランクの家」の前へ向かう。環状運河地区の最も人気のある観光地となっているのが、アンネフランクとその家族8人が隠れていた家である。
ミュージアムになっているが、隠れていた場所なのですごく狭い。だから入場制限、人数制限が厳しくなっていて、15分刻みで事前にオンラインで予約が必要だということ。この時点で2ヶ月先まで予約が埋まっている。

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内部は撮影禁止だが、「アンネフランクの家の中を覗いてみよう!」(RIO in オランダ 2020年12月公開)という動画で、VRによって再現してくれている。
アンネフランクの家の近くに、ホモモニュメント(同性愛者記念碑)がある。ナチスによって迫害された同性愛者を追悼するモニュメントで、現在・過去・未来を表す三つの巨大な三角形が、さらに大きな三角形の角になるように設置されている。水辺に近い三角形には花輪が置かれている。
環状運河地区を南に進み、オランダ料理のレストラン「HAESJE CLAES」、シンゲルの花市場、チーズショップ「HENRI WILLIG」を紹介してもらいながらレンブラント広場へと到着する。


アムステルダム国立美術館

今度は、バンホーテン・ココアとストロープ・ワッフルを用意して、アムステルダム国立美術館を観ることにしよう。
「アムステルダム国立美術館を歩きます」(ソムリンTV 2019年12月公開)という1時間45分の動画があったので、これに同行することにする。
ライブだったようで、パンフレットを手に迷いながら歩いたり、トイレを探してウロウロしたりするのがリアルである。撮影者のソムリンさんと友人のやりとりが、弥次さん喜多さんのようで絶妙だ。
アムステルダム国立美術館は、オランダ人建築家ピエール・カイパースの設計である。オランダの国家遺産に登録されている。
父型彫刻師クリストフェル・ファン・ダイクは、レンブラント・ファン・レイン(1606–1669)とほぼ同年代である。ヨハネス・フェルメール(1632?–1675?)は25、6歳ほど若い。
『物語オランダの歴史』には次のように書かれている。

オランダの17世紀が黄金時代と呼ばれるのは、その経済的繁栄もさることながら、その土壌の上に花開いた多彩な文化活動によるところが大きい。とりわけオランダ絵画の17世紀は、西洋美術史のなかで、イタリアルネサンス及びフランス印象派の時代と並ぶ創造的絵画芸術の時代であった。


1時間余りで、ようやくヨハネス・フェルメールにたどり着いた。もちろん『牛乳を注ぐ女』(1660)は説明文を読みながらゆっくり鑑賞する。さらに『手紙を読む青衣の女』(1660)を鑑賞。『デルフトの小路』(1660)、『恋文』(1669–1670)なども映し出されていく。
そして、レンブラント・ファン・レインの『夜警』(1642)へ。修復中だったが、その様子を見ることができるのもリアルである。『自画像』(1661)、『イサクとリベカ(ユダヤの花嫁)』(1665–1670)などを観て回る。撮影者は、初期の作品である『読書をする老女(女預言者アンナ)』(1631)に注目して、説明文を読みながら熱心に観ている。
フェルメールとレンブラントの代表作を観るだけなら画集でいいのだが、展示の状況や観客の様子などが、テレビの画面越しであるが感じられたのはよかった。

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再び、アムステルダム中央駅

レンブラント広場から、今度は北に進み、マヘレの跳ね橋などの説明を聞き、「飾り窓」地区の近くを通って、アムステルダム中央駅に戻ってきた。これで、アムステルダム市街の見どころを巡って、一周してきたということになる。

18世紀になると、出版・印刷の中心は、オランダからイギリスへと受け継がれていった。ウィリアム・キャズロン(1692–1766)はアムステルダムの父型彫刻師ディルク・ヴォスケンスの活字をモデルにしたといわれる。

現在、アムステルダム中央駅からロンドン・セント・パングラス駅までは、高速鉄道ユーロスターに乗って3時間40分で行けるそうだ。その動画もユーチューブで見ることができる。


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posted by 今田欣一 at 21:28| Comment(0) | ★本と旅と[スペシャル] | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする